忠誠の蜜蜂
海を知らない海鳥がつくった港町。人工魚の焼ける香ばしい匂い、黒い鳥たちが茜に染まる空を泳いでいく。おなかが減った。
雛鳥の学校から続く坂道を下る。シャッターを半分下ろした花屋さん。夕刊のお届け、ペリカンの郵便局。ずっとずっと下っていくと、辿り着くモルタルの壁。
この場所は、蝶と鳥の国境であり、戦場であり、白い花が咲く神聖な場所でもある。海鳥環境保全法第15条『モルタルの壁半径2kmに建物を建ててはならない。』
回想、アジサシ先生の授業。
「この中には、もう『花参り』に行った方も多いかと思います。」
千鳥はつまらなさそうに窓の外を眺めていた。彼女はアジサシ先生の話を厭う。
「皆さん、どうか。花と面会した時の感動を、その胸に宿った美しい感情を、素直な気持ちを、忘れないでください。また、まだの方も、自分は花と面会した時、どう感じるのか、何を思うのか。一度、考えてみてください。」
アジサシ先生の、こういうところが憎めない。
この人は、本当に花が好きだ。花を、どうしようもなく愛してしまっているのだ。この人の花を愛する感情には、嘘がない。でも、それを振りかざして、必死に守ろうとしたり、私たちにそれを押し付けるのってどうなんだろう。
この人の全部が、間違ってたらよかったのに。そうしたら、全部嫌って憎めたのに。
アジサシ先生の花を愛する気持ちは本物だ。たとえその愛し方が間違いだとしても。
回想、終了。
花参り。壁の中の女の子たちが、十七歳になる日に花のもとを訪問するという儀式。そして今日、私は十七歳になる。
まっすぐ壁沿いに歩いていく。壁の冷たい空気があたしを刺す。この壁の内側には、私たちと彼らの戦いの歴史が刻まれている。沢山の棘が生えた地を這う邪悪なもの、それを排除する祖先。壁の表面で、私たちの祖先は花を抱えて微笑んでいる。
向こう側の壁には何が描かれているのだろう。壁の内側では悪者の彼らも、壁の外側では賛美されているに違いない。私たちが、空を飛ぶ悪しきものなのだ。彼らにとっては。
そんなことを考えているうちに、こんなの誰が通るんだと思うくらい背の高い扉に行き着いた。荘厳なその様は、美しい花を守るのにふさわしい。二つの世界は、この壁によって完全に隔絶されている。
花のノッカーがついた緑青色の扉に触れた時、
「今日は面会が多いですね。」
背後から声が聞こえ、振り返る。
柔らかく澄んだ声の主の髪は青く、パステルカラーのミニドレスに身を包んでいた。花びらを幾重にも重ねたようなスカートは、彼女が花そのものであるかのような錯覚を起こす。
「私は忠誠の蜜蜂。」
「…忠誠の蜜蜂?」
「ええ、花の番人をしています。」
「そんなの学校で習わなかったわ。」
「ええ、教科書には載っていませんから。」
蜜蜂はクスリと笑った。
「私は、本当に花を愛する者だけに、見えるのです。つまり、あなただけに。」
「私だけに?みんな花を愛しているわ。」
「そうと言われれば、そうかもしれない。でも、もしそうなら、どうしてあなたはここに来たのかしら?」
「…それは」
「私は、カモメみたいなひとを案内するために居るんです。」
「なんで名前を、」
「私は忠誠の蜜蜂。花が知ることなら、なんだって知ってるわ。」
気づくと、蜜蜂は私と扉の間に立っていた。
「『花参り』なんて、ただの口実なんでしょう?」
扉の先へ行きたいあたしを通せんぼする。
「ねえ、どうしてあなたはここに来たの?」
妖艶に呟く蜜蜂の、青い毛先が私の鼻をくすぐった。
「ここを通りたいのなら、その欲望を花に晒しなさい。」
忠誠の蜜蜂の、まるで何も宿してないみたいな空白の瞳が私の瞳を捕えた時。
「私は花を、解放します。」
自分の口が、勝手にそう口走っていた。背徳的な言葉の響きに、胸が高鳴る。自分の発した言葉を再度心の中で反芻すると、静かな野望が心臓に灯を燈して、頬を紅潮させる。蜜蜂は楽しそうに両手を広げた。まるで花のように。古からの儀式の一環であるかのように。
「私は、花の使者、壁の番人です。あなたが世界を革命する資格があるのか、それとも世界に迎合するのか、剪定します。」
「望むところよ。」
「男女川カモメ、花はあなたに問いかけます。あなたは花を、崇拝しますか?支配しますか?」
「私は、花を解放します。私は世界を、解放します。」
「嗚呼、なんて罪深い。世界のルールに従えない者は、ギルティ。世界はあなたを許さないでしょう。もう、壁の中へは戻れませんよ。それでもカモメ、あなたは行きますか?」
「私は行きます。世界を解放するために。」
忠誠の蜜蜂の花びらのようなスカートがひらりと翻る。
「…その答えをずっと、待ってたわ。」
蜜蜂は綻んだ。その細く滑らかな背中が反ると、鍵の開く音がした。
「たった今、花は綻びました。花はあなたを呼んでいます。世界を革命する者よ、お行きなさい。」
忠誠の蜜蜂が扉を指し示すと、重そうに見えた扉は羽が散っていくように軽く開いた。
蜜蜂はひらひらと手を振ってあたしを見送った。
白く続く螺旋階段を駆け上がる。私を取り囲む、モルタルの壁。その幅は狭く、息が上がるたびに閉塞感が増していった。まだ先は長い。段と段の隙間から覗き込んでも、白く無機質な天井が続く。
それでもあたしは、あなたに会いたい。
少しずつ、私を呼ぶような胸の鼓動が加速する。ああ、きっと、もうすぐだ。身体の奥深くに眠っていたDNAの欠片が目を覚めす。海鳥の本能が、どうしようもなくそれを求めている、気がする。海に向かって砂浜を走る感覚は、緑の木々を通り抜け、青い風景が開ける感動は、きっとこんな感じだろうと思った。
やがて、白く長い螺旋階段は終わり、壁の奥に空間が広がっていた。先の尖ったアーチをくぐり抜けると、微かな夜の光を受けた一面のガラスが星の砂が零れるように瞬いていた。天井はドーム型に広がる。私なんかじゃ届かないくらい高い天井。その上部に埋め込まれた、鳥と蝶のステンドグラス。
大理石の階段の上に咲く、一輪の白い花。そして、濡れた花弁に触れる、誰か。直感的に、彼が私たちの敵であることが分かった。背中に生えた夥しい数の棘、美しいとは程遠いその姿は、彼がまだ未成熟の幼虫であることが伺えた。
その醜い腕が、花に伸びてゆく。
「触らないで!」
反射的に叫ぶと、彼の瞳が私を捕えた。燃えるように輝く青い瞳だった。排他的な雰囲気と、ある種の怯えを湛えたその目に、不覚にも、見惚れた。
直後、彼は近くの窓から素早く飛び出していった。
そんな、無謀な。
窓に駆け寄り、その後を目で追う。彼はもうどこにもいなかった。
突然の出来事に、頭が追い付かなかった。窓の外を眺めていると、月明かりに照らされて、きらきらと何かが光った。ああ、やっぱり。
見たことのない顔つき、身体つき。あの子はきっと、壁の向こうの子だ。
胸の奥がどくどくと、奇妙な音を立てた。あの子はここに、何をしに来たんだろう。柔らかく濡れた花に触れるその瞳は、とても、想像と違っていた。
『花を穢す悪しき虫』アジサシ先生が私の脳内で教科書を音読した。
ぼんやりと、蝶の子供が空を飛べないなんて、きっと私たちの思い違いなんだろうと思った。
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