アウト・オブ・リリィ
天上ひばり
男女川カモメは世界からあの花を解放します
「宣誓、男女川カモメは世界からあの花を解放します。」
ある日、世界は一輪の白い花によって二つに分断された。
私の席から見える、モルタルの大きな壁。その頂に、彼女は今も、咲いている、らしい。
「八月一日、この日に何がありましたか?」
眼鏡をかけたアジサシ先生が、チョークでこれでもかというくらい大きく「八月一日、」と書いた。
「百合ヶ崎ウミネ子さん、」
指名された彼女はびくっと肩を揺らす。困ったように垂れ下がった彼女の瞳が狼狽える。ウミネ子は小さく返事をし、「わかりません…」と呟いた。
「国の歴史もわからないなんて…立ってなさい。」
そう言われたウミネ子は顔を赤らめて俯いた。後ろの席の千鳥がクスクス笑って、くるくるした猫っ毛が跳ね回る。
「では、男女川さん。」
「はい。この国が建国された日です。」
「正解です。皆さん、国の歴史は覚えておかねばなりません。」
アジサシ先生は手に持ったチョークを置き、教壇の前まで歩いてきた。皆の空気が騒ぎ始めるのがわかる。
「この日、私たちは誓ったのです。」
千鳥が「またかよ…」と呟いた。
「そして、戦いの日々が始まったのです。八月一日は、革命の日です。私たちは花を守らねばなりません。」
抒情的に話すアジサシ先生の唾が前の席の生徒達に降り注ぐ。
「花に集る害虫を駆除し、世界の平和を守るのです。」
この世界は少し、狂っていると思う。
「…でも先生、どうしてそこまでして花に拘るんですか。」
「百合ヶ崎さん!なんてことを言うんですか!」
赤くなって俯いていたウミネ子はさらに耳まで真っ赤にし、「すみません…」と縮こまる。
「まったく最近の若い子ときたら…」
アジサシ先生は高いヒールの音を響かせ、教壇の前を行き来した。
「あーあ。」
千鳥は両腕を組み、隣の席のウミネ子を恨めしそうに眺めた。金色の髪が光に透けて、不良具合に拍車がかかる。
「私だって言いたくて言っているわけではないのです。もういい加減覚えてください。これが私たちのルールなのです。」
アジサシ先生の目には、何も映っていなかった。刻々と時を刻む秒針も、半分しか進んでいない教科書も、泣き出しそうなウミネ子の顔も。私が隠した欲望も。
「私たちの祖先はあの白い花に恋をしました。白い花を愛で、守り、その姿を永遠にしようと誓ったのです。しかし、悪しき彼らが現れました。皆さんも知っているでしょう、あの醜いクソ虫どもを。」
「気色悪い…」
「その通り!生き物にあるまじき気持ち悪さです。彼らは醜く地を這う無様な虫ケラ。そんな奴らにあの花を渡してはなりません。」
「先生、熱入ちゃったぁ。」
千鳥はそう呟いて生え替わりかけた羽をさわさわと撫でていた。
「私たちはあの花を奪われた日のことを忘れてはならない。そしてもう二度と、あの花を渡してはならないのです。」
アジサシ先生は、うっとりと、まるで乙女の初恋のような表情であの壁を見つめた。
私は正直、ちょっと引いた。
「この壁はその決意の証。私たちの世界はあの花と共にあります。」
港から船が出発する時の汽笛が鳴り響く。授業終了。
「次回の授業では、第一次百合戦争のお話をします。予習してくるように。」
授業が半分も進まなかったことは棚に上げ、アジサシ先生は入ってきた時と同じように小脇に教科書を挟み、闊歩していった。
「最後まで座れなかったねぇ、ウミネ子。」
からかうように千鳥はウミネ子を眺めた。えへへ、とウミネ子は恥ずかしそうに笑った。
「軍国主義のアジサシ。古いっての。」
千鳥の隣で、黒髪ロングのカマトトぶったウミバトは白い紙を取り出し、水性ペンで薄れた文字をなぞった。キュ、キュ、と独特の音がする。
「…ウミバト、何書いてんの?」
「進路希望調査。」
「ゲ、いつまでだっけ?」
「今日。」
「…は?もっと早く言ってよ!」
「もっと早く聞きなよ。」
「ウミバトはなんて書いたの?」
「ユリカモメ特攻隊。」
「は?あんた特攻隊入るの?」
「ええ、」
「なんで?」
「安定。」
「ウッソー危険じゃん。死ぬよ?」
「相手はクソ虫ですから。私たち空飛べるし。それに、」
「それに?」
「…花が、好きだから。」
「ふーん。」
千鳥とウミネ子は顔を見合わせニヤついている。
「ウミネ子は?」
「千鳥ちゃん、笑わない?」
「何さ、言ってごらん。笑わないから。」
「…花医さん。」
「へぇ、あんたも。」
「…ほら、だから言いたくなかったの!」
千鳥がからかうように微笑むと、ウミネ子は頬を膨らませた。海の上に漂うウキのようだった。
「恥ずかしがらなくていいわ、花医も立派な国家公務員だもの。」
「カモメは?」
千鳥の鳥目に捕まった。獲物を捕るのが誰より得意だった千鳥は、蚊帳の外のあたしを輪に引き込むのが上手い。
「どうするの?進路、」
柔らかなさえずりでウミネ子は言った。のほほんとした彼女の仕草や表情は癒し系で、かわいらしい。
「進学でしょ、優等生。聖百合城学園大。そんでそのまま、ユリカモメの幹部にエスカレーター。」
千鳥が左手をエスカレーターに、右手で上るあたしを表現すると、ウミバトはムッとした。
「私はユリカモメにはならないわ。」
三人は私を見て、目を丸くした。まるで浮き球みたいな透明な丸さで、私はうっかり、胸が躍った。
「…じゃあ、どうするの?」
ウミネ子は不思議そうに首を傾げる。
「私はあの花を、解放する。」
そう言うと、三人の表情が凍りついた。動かざること山の如し、まるで蛹のようだった。
千鳥は固まった頬を何とか引き上げる。せっかくかわいい顔なのに、ひどく歪な形をしていた。
「…マジで?」
男女川カモメは、世界からあの花を解放する。
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