【第三十二走】深夜の邂逅

 すねたような表情の子供神から視線を外し、気まずくなってあたりを見回すと――いつの間にかストリートミュージシャンが一人、向かいの公園で路上ライブを始めていることに気がついた。彼には数人の追っかけの子ファンがいると見えて、彼女らは身体を揺らしながら嬌声をあげてライブに熱中しているようだった。深夜だというのに、ご苦労なことだ。

 真夜中に騒ぐ人たちから目を離し、改めて今回の相手である足元の赤いタイル――翔多しょうたと言ったか――へと目をやってみる。

 相手は無機物なのでもちろん表情というものがなく、その様子はうかががたい。そこでとりあえず俺は、突然目の前でいさかいを起こしてしまったことを詫びることにした。


「いや、すまなかったな翔多。いきなり大声なんか出しちまってよ」

「それはいいんだけどさ――なあ?」

「うん?」

「あんた、本当に俺の願いを叶えてくれるのか?」

「それに関しては、こっちはこっちで思惑があるからな。間違いなくお前が満足するまで協力してやるつもりだが」


 俺は翔多へ向かってしゃがみ込み、ささやくようにしていた。


「お前の望みって、本当に『踏まれたい』でいいのか?」

「そうだよ。ただし相手は、抜群に美人なネーチャンで頼むぜ」

「そこなんだよなぁ。お前は特有の病を患う時期じゅうよんさいだから、異性に対して好奇心が満ち溢れるのは仕方ないとしてだ。なんで『踏まれたい』なんて思うんだよ?」

「え、なに? あんたくらいの年齢おっさんになると、性欲とか衰えちまうわけ?」

「馬鹿言え。性欲なんてまだまだ盛りを更新してるに決まってるだろ。ナメんなよクソガキ」


 思わず張り合うように胸を張って答えると、何やら背後から刺々しい視線を感じた。振り向くとそこには停車中の原付ユキがいて、俺と視線が交錯するやいなや彼女は口を開いた。


「サイテー」


 俺の心の柔らかい部分に、何かが突き刺さる音がした。

 普段なら多少の悪口など倍にして返す俺だが、こればかりはそうもいかなかった。健康で健全な青年男子の本分を一言で切って落とされるのは、さすがに堪える。

 さらに追って浴びせられる冷たい視線に耐えきれず、俺は再び背中を丸めながら小声で翔多に向かって抗議する。


「お前のせいで余計なダメージを負ったじゃねぇか。どうしてくれる」

「あんたが勝手に言ったんだろ」

「っていうか、誰がおっさんだよ。俺はまだ二十歳はたちになったばっかだっての」

「俺からしたら、年上はみんなおっさんだよ」

「ひどい一蓮托生だな。読者が泣くぞ」

「なんの話だよ?」

「こっちの話だよ」


 俺のメタ発言をいぶかしみながらも、翔多の減らず口が止まることはない。


「つーか、そもそも俺、あんたの名前知らねーし。ついでにそこの取り巻きたちも。こっちの名前教えたんだから、そっちも名乗るのが礼儀じゃね?」


 確かに正論である。それを年下に指摘されるのはなんとも情けない話ではあるが――ユキに蔑まれ、すでにだいぶ情けない状態になっているので――俺は素直に自分の非礼を詫びることにした。


「一理あるな。すまなかったよ性癖歪曲小僧」

「あんた、いちいちあおらないと死ぬ病気にでもかかってんの?」

「煽りは俺のライフハックだ、気にするな」

「どんな人生なんだよ、それ」

「いいから気にするなって――じゃあ順番に行くぞ。まずは俺の名前は――」

「いーどやっ!」


 と、俺が自己紹介を始めようとしたところ――ふいに響いた女性の声とともに、俺の背中は柔らかな温もりと、若干の重みに覆われた。


「こんな道の真ん中で何してんのー?」

「な、七香なのかさん!?」


 しゃがんでいる俺の背中にのしかかってきたのは、誰あろう七香さんだった。


「違うよー、だよー。ねぇねぇ、何してんのってー。エロいことー?」

「七香さんこそ、こんなところで何を――っていうか酒くさっ!」


 お酒は好きだが特別強くはない彼女である。ここまで酒の匂いを漂わせているとなると、おそらく相当飲んだのに違いない。その証拠に、さっきから語尾を伸ばして舌足らずな口調になっている。七香さんは酔いが強く回ると、必ずこのように子供のような話し方になるのだ。


「んふふー。それ訊いちゃうー? 知りたいー?」

「い、いや別に――」


 背中にのしかかりながら、楽し気に揺れる彼女。俺は正直、これまでの彼女の行為なんかよりも、背中に押し付けられている現在の胸囲のほうが気になって仕方ないのだが。

 そうこうするうちに、男性的なに襲われ、俺はつい前かがみになってしまった。その途端、七香さんはバランスを崩し、「わぁー」といいながら俺の背中から滑り落ちた。ちっ。


「ナナコはねぇー、あっちでイイコトしてきたのー」


 石畳にあお向けになって寝転んだ彼女は、気だるそうに持ち上げた指で北の方角を示した。あちらはそう、先に述べた通りの街の方角――。


「あ、そう――です、か」


 その発言に、言いようのない気まずさと、ほんの少しの不愉快さを感じた俺は、思わず口ごもってしまう。

 そんな俺を見て七香さんは、手足をばたつかせ、愉快そうにけらけら笑いながら言った。


「あははは、井戸屋信じたのー? 信じちゃったのー?」

「え?」

「嘘だよー、ウ・ソ」

「――嘘?」

「そう、嘘だよー。本当は知り合いとお酒飲んでただけー」

「あ、そう――です、か」


 先ほどと同じ言葉を、今度は安堵の気持ちで口にした。


「井戸屋、安心したー? っていうかもしかして、いたの? 妬いてくれたのー?」

「なにを馬鹿な――それよりほら、起きて下さい。汚れますよ」


 にやにやした笑みを浮かべながら彼女に詰め寄られ、はぐらかすように話題を反らそうと試みる。


「あー、馬鹿って言ったー。童貞のクセにー」


 本来の目論見には成功したものの、代わりに話題は思わぬ方向へと不時着してしまった。


「童貞関係ないでしょ!」

「ナナコ、童貞に馬鹿にされるほど、落ちぶれてないもーん」

「いや、落ちぶれてはいないでしょうけど、酔いつぶれそうじゃないですか」

「まだまだ、朝まで平気だよー。ナナコは大人だもーん」

「いやいや――」

「大人、だもん。う――ぐす――」


 いつものやりとりの最中に、突然七香さんの表情がかげり始めた――と思った矢先。


「――うえぇぇぇぇん」


 まるで夏の天気雨のように、彼女の表情は快晴から一転して土砂降りになってしまった。


「な、七香さん――」


 七香さんは顔を覆って泣き続ける。それは何か、今まで溜め込んでいたものを吐き出すかのようで――彼女は嗚咽と叫声を交互に繰り返しながら涙を流した。

 俺はうろたえるだけで何もできず、彼女の扱いに途方に暮れながらも、内心ではわずかに安堵していた。

 通常なら、往来のど真ん中で女性が寝転びながら泣きべそをかき始めたら、たちまち人だかりができたことだろう。偶然とはいえ、子供神に人払いをさせていて良かった――と。


 その瞬間、俺は重要なことに思い当たった。


 急いで立ち上がり、離れた場所で浮かんでいる子供神に向かって声をかける。


「おい、クソガキ――お前、ちゃんと人払いしてるんだよな?」

「無論だ。見ればわかるだろう」


 未だに機嫌が治らないのか、しかめっ面で子供神は言う。

 これだけ七香さんが泣きわめいても、誰もこちらを気にする様子はない。向こうのストリートライブを見ても、参加している面々はなんらこちらを不審がることもなく、思い思いに楽しみ続けている。

 確かに奴の言う通りのようだった。

 じゃあなんで――。


「――じゃあなんで、!?」

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