【第三十走】深夜の荒波

「ふ――く――」


 不気味なうめき声が響く午前二時。

 はたして俺は、リリィ通りを訪れていた。

 子供神により人払いがされた駅前の中心地は、不自然なほどに静まり返っているため、うめき声は嫌でも耳についた。


「ふ――で――」


 ちなみにここへ来る前、信号機の美桜みおさんのもとへ寄ってみたところ、「気を付けてね」と優しい声をかけられて涙が出そうになった。


「――んで――れ」


 日中は何かと心がすさむことばかりだったので、その天から降り注ぐ菩薩のごとき優しさに思わず頬がほころび、心が潤いかけたところ――「デレデレしてんじゃないわよ」と原付ユキから叱責され――結局、俺の心は荒んだままだった。


 そんな荒れた心で俺は今、この深夜のリリィ通りに立っている。

 そしてテキサスの荒野のような現在の俺の心をさらに荒れ果てさせる要因が、足元にいる。

 先ほどから途切れ途切れで聞こえる声は、どうやら俺の足元のレンガから発せられているようだ。そしてそれは、黄土色で敷き詰められた周囲のレンガタイルとはただひとつ異なり、赤茶色をしていた。


「ふ――でく――」


 声の発生源に向かって耳をそばだてると、どうも男の声らしかった。

 これまではユキといい、美桜さんといい、女性の相手ばかりが続いたので、俺はてっきり今回もそうだと思い込んでいたのだが――どうやら『救済』の対象に、男女の性は関係ないらしい。

 そうとは知らず、すっかり新たな女性との出会いを期待し、心を弾ませてしまった俺は、つい子供神に向かって「話が違う」と愚痴をこぼしてしまった。

 それに対する、目の前で浮いたり漂ったりする白髪の子供神の返答は――、


「対象が女のみだと言ったか? このれ者が」


などという、至極まっとうな正論であった。

 赤い着物をひらひらさせながら答える子供神は、相も変わらず小憎たらしい表情をするので、一発殴りつけてやろうかと拳を振り上げかけたが――確かに今回は自分の早とちりであったので、静かに拳を収めた。


 そんなわけで、俺の内心は冬の日本海のように荒立っていた。

 それでも平静を保とうと般若心経を心の中で唱え、声のするほうへ意識を集中すると――やがて声のチャンネルが合ってきて、はっきりと聞こえるようになった。

 聞こえてきたその声の内容は――。


「踏んでくれ――」


 聞き間違いかと思い、改めて耳をすませてみる。


「踏んでくれ」


 ――間違いない。


 これは紛れもなく、




「踏んでくれぇぇぇぇぇぇ!!」




 ――変態の声だ。


 突然の変態の登場に、一瞬我を失いかけたが――しかしこちらも慣れたもので、一度目みおさんの時のように取り乱すようなこともなく――先ほどまでの心の荒れようはどこへやら、俺は極めて冷静に対応することができた。


「なるほど――やれ、ユキ」

合点がってんだ」


 俺の呼びかけに、勇ましい掛け声で応えるユキ。

 そのまま前輪でぐりぐりとこすってやると、変態レンガタイルは新たな声をあげた。


てて、痛ててて!」

「どうやら相手はおよろこびのようだ。ユキ、もっとやれ」

「合点だ」

「痛い! 痛いって!」

「かまうなユキ、やれ」

「合点だ」

「やめろ、やめてくれぇ!」


 なおも俺とユキが代わるがわる踏んづけ続けると、足元の声色に本気の拒絶が混じり始めたので、さすがに俺は一度その手を止めた。


「はぁ、はぁ――何するんだよ!?」

「いや、お前が『踏んでくれ』なんて言うから、その通りにしてやろうかと思って――」

「誰が野郎に踏まれて悦ぶかよ! 男ならみんな、可愛い女の子に踏まれたいに決まってるだろ!」


 まるで自分の感性せいへきが、世間一般の男子の総意せいへきであるかのような口ぶりである。


「その趣味嗜好も解らんではないが――まずは落ち着けよ」

「――アンタもそーゆーシュミなわけ?」

「言葉のあやだ、気にするな。それより」


 まるでジト目で見られているかのような、湿った視線を感じる。それを無視して俺は言葉を続けた。


「いちおう原付コイツは女子だぞ、これでも」


 我ながら口にしておいてなんだが――とてもにわかには信じがたい言葉である。

 それは相手も同じだったようで、至極当然の反応が返ってきた。


「嘘だ! そんなわけがあるか!」


 ある意味で悲痛な叫びである。

 だがそれを断罪したのは、まさしく神そのものであった。


「紛れもなく、その原付は我が転生させた女子おなごであるぞ」

「そうよそうよ、お望み通りよ。これ以上、何が不満なのよ」

「不満だらけだ! そもそもそこの子供ガキは、俺をこんな身体にした張本人じゃねーか! 今さら何をしに来やがった!?」

「うむ。お前を救いに来たのだ」

「どの口が言うんだ! 誰のせいだ!」

「ごもっとも」


 思わず、俺とユキは声を合わせてうなずいてしまうのだった。

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