【第十八走】問題
最悪の気分だ。
遠巻きに噂話が聞こえる。
「――あの人」
「――ああ、昼間の」
よりにもよって、人の集まる学食でいざこざを起こしたせいで――一部始終を多数の生徒に目撃されてしまった。そのため、午後の話題はもっぱら俺たちのことで持ち切りだった。
「――そうそう、
「――そんなに気に入られたいのかね、あんなビッチに」
しょせん、いち大学生のいさかいにすぎないのに――どうしてみんな、そこまで気にするのかと不思議でしょうがない。そんなことよりも、世界情勢や日本経済のゆくえなど、他に気にして語り合うべきことがたくさんあるだろうにと思う。もっとも、そのような深刻な問題について友人と語った記憶は、俺にもないが――。
――などと、無理に笑い飛ばそうとしても――周囲のささやきはやまず、気持ちはささくれ立つ一方だった。
「――自分もワンチャン狙ってるんじゃない?」
「――それで他の男に取られるとか、マジウケる」
何も知らないやつらが、小声で好き勝手なことを口にする。
それが耳に入るたびに、激情に駆られて掴みかかりたくなる。
「――なんかあの人、前にも田村先輩に喧嘩売ったらしいぜ」
「――なんで?」
なんでもポンデリングもない。
俺は俺の正義のために喧嘩を売っただけだ。
脳内がエンゼルフレンチなお前らは黙っていろ。
「――
「――で、どうなったの?」
お前らが、俺の何を知る。
俺たちの、何を――。
「――負けたに決まってるじゃん。それもボロ負けだって」
「――うわ、ダサッ」
こんなことを口にする奴らは、その言葉が他人を傷つけることを理解していない。
声高に糾弾したところで、決して心が痛んだりはしない。
義勇を奮って殴り飛ばしても――痛むのはせいぜい自分の手だけだ。
だからこらえろ――。
己にそう言い聞かせ、暴れだしたくなる気持ちを抑えながら午後の講義は乗り切った。
*
まとわりつくような小声が響いて
『ごめん、夜メシはまた今度にしよう』
『構わないけど、大丈夫?』
はたしてその「大丈夫」が、俺の腹と胸、どちらの内情を
この
なんせ、娯楽に乏しい田舎における最上級の
それでもなお、はっきり「知っている」と言わなかったのは、彼の優しさに他なるまい。
その優しさに応えるべく、とりあえず俺は『大丈夫』というスタンプを送って、スマホの画面を消した。
人知れず嘆息しながら考える。
――まったく、人生は問題だらけだ。
これがテストや試験なら、問題を一つ解けば、自ずと残りの問題数は減っていく。だが、こと人間関係においては――一つも解決していないのに、次々と問題が沸き起こってくるのだ。そのくせ難易度はべらぼうに高いときている。
――とりあえず、できることからやっていくか。
やけくそとも開き直りともいえるような精神状態で、ことに当たる決心をした。
まずは――せっかく七香さんに教えてもらったのだから――
そのためには、
気分は最悪でも、やれることがあれば足取りも多少は軽くなる。
そうして
またしても、いた。
願いを叶える幸福の黒猫――ルナが。
どうやら夕日の差し込み加減と、俺が毎度駐車している場所が、ルナにとってはちょうどいいようだ。傾きかけた日差しを浴びつつ、ユキのシートの上に丸まって、幸せそうに眠っている。あの硬いシートの、何を気に入ったのか知らんが、実に気持ちよさそうである。もしかしたら、そっと近づけば今度こそお腹の模様を確認できるかもしれない。
だがしかし。
今の俺には、叶えたい願いなどなかった。「先程までの騒動をなかったことに」と思わないでもないが――周囲の噂を消し去るために、不確かな噂話にすがるというのは――なんだかとても
そんなものに巻き込んで、目の前の小さな幸せを壊してはなるまい。
そんな思いで、ゆっくりと、しかし足音などには特段の配慮はせずに近づいてみたところ――。
ルナは
エジプトのスフィンクスのような座り方――きっちゃんいわく「
いい機会だと思った俺は、これまたきっちゃんから教わった「猫とお近づきになる方法」を試してみることにした。
そのやり方は至極簡単で――ゆっくりと鼻先に人差し指を差し出すだけ、というものだった。なんでも、猫は鼻と鼻を近づけて挨拶をするそうなので、鼻の代わりに指を近づけるといいらしい。
実際にそっと指を差し出してみると、はたしてルナは鼻を近づけて、匂いを確かめにきた。
ほんのわずかに触れたルナの鼻。
思いのほか冷たくて、思わず指を引きそうになる。
そんなこちらの戸惑いをよそに、なおも嗅ぎ続けるルナ。
時間にすればほんの数秒のことなのだが――その無邪気な姿に、俺の頬は思わずほころんだ。
ひとしきり嗅ぎおえるとルナは納得したと見えて、らくだのこぶのように背中を丸めて伸びをしたあと、そのまま飛び降りてどこかへ行ってしまった。
その際、ちらりとお腹が見えたような気がして――俺は我が目を疑った。巷間ささやかれている話では、ルナのお腹にあるのは「白い三日月模様」のはずである。
だが、今見えたような気がしたあれは――三日月というよりも――。
自分の目が信じられず、思わず今までルナのいたシートを撫でてみると――ほんのりと残る暖かさが、確かにルナがいたことを証明する。ならば、今見たものは間違いではないらしい。ということは、噂は間違っているようで――それに気づいているのは、おそらく俺だけなのだろう。
あまりの出来事に呆然とシートに触れていると、久方ぶりの声が聞こえてきた。
「アンタ――いつまで撫でてんのよ」
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