【第十七走】闇のち光――のち、闇。

 七香なのかさんと話すことで、なんとなく解決の糸口が見えてた気がした。

 となれば、次に考えるべきことは――はたして信号機に転生した美桜みおさんは――誰の瞳に映れば、満足できるのだろうか、ということだ。そしてその答えは、先ほど七香さんが語ってくれた。

 あとは、どうやってそのことを実現するか――と、思考が現実を離れていたところで、


「ちょ、ちょっと井戸屋――いつまで見つめてんのよ」


と、七香さんに声をかけられ、自分が彼女の瞳を凝視したままだったことを思い出した。


「あ、ああ――すみません、ちょっと考え事を――」

「こんなにを目の前にして、何を考えてたってのよ、この浮気者」

「浮気ってそんな――」

「気持ちが浮つけば浮気でしょーよ」

「いや、まぁ、それはそうかもしれませんが」

「あーあ、なんか井戸屋に付き合って損したなぁ。他の女の話はされるし、見つめてるかと思えば上の空だし。つまんない、帰ろっかなぁ」


 七香さんは頬を膨らませながら、ふてくされ始めた。チークで赤く染まった頬が丸く膨らむのは、タコのようで少しおかしかったが――今そんなことを口にしたら本気でへそを曲げられてしまう。ここはなんとかしてご機嫌を取らねばなるまい。


「まあ、そう言わず――今日はすごく参考になる話もしてもらえましたし、ぜひお礼をしますよ」

「んー、ホント?」

「ええ、もちろん。アイスでもお菓子でも。なんならカラオケでも――」

「カラオケ!?」


 ――つい、口が滑ってしまった。


 即座に「いや、やっぱりカラオケはなしで」と言おうとしたが――あいにくと、横に座る女性の瞳は今すぐにでも出発しそうなほど輝いていた。先ほどまでの不機嫌は何処へやら、である。

 七香さんは大のカラオケ好きだ。そして非常に歌が上手い。他方、俺も別に不得手ではなく、人並み程度には歌える。だから、問題はそこではない。


 問題なのは、彼女のカラオケに付き合えば、朝までオールになるのは目に見えていることだ。朝までオールとなれば、お酒も入るし電車代もかかる。この田舎では駅前まで行かなければカラオケはないし、そこでお酒を飲んでしまえば原付に乗ることはできなくなる。となれば、電車で帰るより他ない。


 すでに皆さんご存知のように――先日、子供神すべてのげんきょうに賽銭を奮発してしまった俺には、七香さんにおごれるほどの経済的余裕など皆無である。こうして朝早くから学校に来ているのだって、先述したように、ノートの報酬としてきっちゃんから夕食をご馳走になるためだというのに。


 とはいえ――。


 佐竹家には、「借りた借りは必ず返せ。貸した貸しは返ると思うな」という家訓がある。そのため、今回の借りは絶対に返さなければならない。これは父の代より末代まで連綿と続く由緒ある家訓なのだから、現状末代最有力候補である俺が破るわけにはいかない。


「いいよ、ナナコ、カラオケがいい! 行こ行こ!」


 あまりの喜びようで、勢い付けて飛び出そうとした七香さんだったが――そんな彼女を思いとどまらせたのは、お互いに聞き覚えのある低い声だった。


「よぉ、ナナコ」


 振り向くと、そこにいた声の主は――百八十センチはある長身に、服の上からでもそうと解る隆々とした筋肉をまとった大男だった。


「――浩二コージ


 彼女は浮かせかけた腰を落とすと、ちら、と大男へ視線をやる。

 が――すぐに目をそらした。


「お、なんだ――佐竹もいんのかよ。なんだオマエ、なにしてんだ」


 大男は俺を認識すると、上からぎろりと睨みつけてきた。


「どうも――田村先輩」


 座ったままで軽く頭を下げる。


「ひとの元カノとなにイチャついてんだよ? 俺はオマエと兄弟になるつもりなんかねぇぞ」

「奇遇ですね。俺も『人類みな兄弟』とかいう言葉、大嫌いなんで――俺とアナタは他人でいましょう」

「相変わらず口の減らねぇ野郎だな。それにお前が狙ってるのは、『みな兄弟』じゃなくて『穴兄弟』だろうが」


 そう言うと田村先輩は「ぎゃはは」と笑った。先のセリフと同じくらいに品のない笑い声が、学食に響く。


「なぁ、ナナコ。義理の兄弟なんか増やしてねぇで、やっぱり俺とヨリを戻さねぇか? お前と別れてから、ずっと忘れられねぇんだよ」

「ナナコにご執心なのはいいけど、どうせアンタが欲しいのは、ナナコの身体だけでしょ、浩二」

現金いらずキャッシュレスの女が何を言ってやがる」


 その声を受けて、七香さんのむき出しの肩が小さく震えた。

 そんな彼女の肩を、無遠慮に鷲掴みにする田村先輩。


「それともなんだ? 二回目以降は有料ってか? アダルトサイトじゃあるまいし――」

「二回目でも何回目でも、アンタにはどんなにお金積まれたってもう関わりたくないの――放してよ」


 その手を振り払おうとする七香さんだったが、レスリング部で鍛え上げられた彼の手は、捕まえた獲物をやすやすと放したりはしなかった。


「なあ、そうつれないことを言うなって。一度は好き合った仲なんだからよ。もっとも――回数は、一度や二度じゃねぇけどな」


 相変わらず、下卑た言葉と笑い声が大きな口から吐き出された。この口からは、下品なものしか生まれないのだろうかと疑ってしまうほどだ。


「痛いって――」


 なおも抵抗する七香さんを見るに見かねて、俺は口を挟む。


「先輩、いい加減にしましょう。嫌がってますよ、七香さん」

「あぁ――?」


 俺の声を受けて、田村先輩は不機嫌そうに再びこちらを睨みつける。


「なんだオマエ、相変わらずコイツナナコのことを名前なのかで呼んでんのかよ。点数稼ぎに必死じゃねぇか」

「いやあ、誰かみたいに上からじゃないと声をかけられないクレーマーみたいな人とは違うので。おかげでポイント貯まり放題なんですよ」

「そこまでしたって、まだヤラせてもらえてねーんだろうが。残念だったな」

なのかさんじょせいとして認識できない認知力のほうが、よほど残念だと思いますよ。その証拠に、ほら――」


 そのまま周囲を指差してやる。


「みんな、残念な目で見てるでしょ?」


 俺の一言で、学食中の冷めた視線がこちらに向けられていることに、先輩はやっと気づいたようだった。

 もっとも――その視線が冷めている一番の理由は、彼の倫理観を弾劾するものではなく、憩いの時間を台無しにされたことに対する非難なのだろうが――興奮状態の田村先輩は気づきはしまい。


 だからそれを利用させてもらった。


「なんだオイ、見せモンじゃねーぞ!」

「進んで見世物になったんでしょうに」


 がなり立てる先輩に向かって、本来不必要な煽り文句を言ってやる。

 こうすれば、おそらく――。


「てめぇ、さっきから先輩に向かって――!」


 ここでやっと先輩は七香さんの肩から手を放し――代わりに俺の胸ぐらを掴んできた。思ったとおりだ。あとは一発殴られでもすれば、彼の荒ぶった気持ちも落ち着くかと思い、歯を食いしばる。

 はたして田村先輩が右腕を振りかぶったところで――少しだけ予想外なことが起きた。


「もういいよ! やめてよ、浩二!」


 そう言って彼の右手に抱きついたのは、誰あろう七香さんその人だった。


「解った、解ったから――一回くらいなら付き合うから――もうやめて、井戸屋にひどいことしないで」

「な、七香さん――?」


 殴られて丸くおさめるつもりの事態が、予想外の方向へ向かい始めたことに気いた俺は、慌てて声をかけるも――すでに手遅れだった。


「本当か? 一回ならいいんだな?」


 先輩の念押しに、七香さんはだまってうなずく。


「おう、そういうことなら許してやるぜ」


 七香さんの態度に気を良くした彼は、あっさりと俺の服を掴んでいたその手を放した。


「へっへっへ。おかげでいい思いできそうだ。礼を言うぜ、クン――なぁ」


 笑いながら顔を近づけると、田村先輩はその他人を不快にすることしかできない口で、ありったけの嫌味を吐き出した。


「イキッた挙句、女にかばわれるとか――なっさけねぇ奴だな、オマエ。あばよ」


 屈辱的なセリフを突きつけられた俺は、先ほどは覚悟で食いしばった歯を、今度は悔しさで力いっぱい噛み締める。

 そんな俺を見て、七香さんは静かに声をかけてきた。


「ごめんね、井戸屋。なんか、そんな気分ノリじゃなくなっちゃった――」


 謝らないで――と俺が口にするより早く、彼女は言った。


「また今度、カラオケ行こうね」

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