【第十七走】闇のち光――のち、闇。
となれば、次に考えるべきことは――はたして信号機に転生した
あとは、どうやってそのことを実現するか――と、思考が現実を離れていたところで、
「ちょ、ちょっと井戸屋――いつまで見つめてんのよ」
と、七香さんに声をかけられ、自分が彼女の瞳を凝視したままだったことを思い出した。
「あ、ああ――すみません、ちょっと考え事を――」
「こんなにカワイイコを目の前にして、何を考えてたってのよ、この浮気者」
「浮気ってそんな――」
「気持ちが浮つけば浮気でしょーよ」
「いや、まぁ、それはそうかもしれませんが」
「あーあ、なんか井戸屋に付き合って損したなぁ。他の女の話はされるし、見つめてるかと思えば上の空だし。つまんない、帰ろっかなぁ」
七香さんは頬を膨らませながら、ふてくされ始めた。チークで赤く染まった頬が丸く膨らむのは、タコのようで少しおかしかったが――今そんなことを口にしたら本気でへそを曲げられてしまう。ここはなんとかしてご機嫌を取らねばなるまい。
「まあ、そう言わず――今日はすごく参考になる話もしてもらえましたし、ぜひお礼をしますよ」
「んー、ホント?」
「ええ、もちろん。アイスでもお菓子でも。なんならカラオケでも――」
「カラオケ!?」
――つい、口が滑ってしまった。
即座に「いや、やっぱりカラオケはなしで」と言おうとしたが――あいにくと、横に座る女性の瞳は今すぐにでも出発しそうなほど輝いていた。先ほどまでの不機嫌は何処へやら、である。
七香さんは大のカラオケ好きだ。そして非常に歌が上手い。他方、俺も別に不得手ではなく、人並み程度には歌える。だから、問題はそこではない。
問題なのは、彼女のカラオケに付き合えば、
すでに皆さんご存知のように――先日、
とはいえ――。
佐竹家には、「借りた借りは必ず返せ。貸した貸しは返ると思うな」という家訓がある。そのため、今回の借りは絶対に返さなければならない。これは父の代より末代まで連綿と続く由緒ある家訓なのだから、現状末代最有力候補である俺が破るわけにはいかない。
「いいよ、ナナコ、カラオケがいい! 行こ行こ!」
あまりの喜びようで、勢い付けて飛び出そうとした七香さんだったが――そんな彼女を思いとどまらせたのは、お互いに聞き覚えのある低い声だった。
「よぉ、ナナコ」
振り向くと、そこにいた声の主は――百八十センチはある長身に、服の上からでもそうと解る隆々とした筋肉をまとった大男だった。
「――
彼女は浮かせかけた腰を落とすと、ちら、と大男へ視線をやる。
が――すぐに目をそらした。
「お、なんだ――佐竹もいんのかよ。なんだオマエ、なにしてんだ」
大男は俺を認識すると、上からぎろりと睨みつけてきた。
「どうも――田村先輩」
座ったままで軽く頭を下げる。
「ひとの元カノとなにイチャついてんだよ? 俺はオマエと兄弟になるつもりなんかねぇぞ」
「奇遇ですね。俺も『人類みな兄弟』とかいう言葉、大嫌いなんで――俺とアナタは他人でいましょう」
「相変わらず口の減らねぇ野郎だな。それにお前が狙ってるのは、『みな兄弟』じゃなくて『穴兄弟』だろうが」
そう言うと田村先輩は「ぎゃはは」と笑った。先のセリフと同じくらいに品のない笑い声が、学食に響く。
「なぁ、ナナコ。義理の兄弟なんか増やしてねぇで、やっぱり俺とヨリを戻さねぇか? お前と別れてから、ずっと忘れられねぇんだよ」
「ナナコにご執心なのはいいけど、どうせアンタが欲しいのは、ナナコの身体だけでしょ、浩二」
「
その声を受けて、七香さんのむき出しの肩が小さく震えた。
そんな彼女の肩を、無遠慮に鷲掴みにする田村先輩。
「それともなんだ? 二回目以降は有料ってか? アダルトサイトじゃあるまいし――」
「二回目でも何回目でも、アンタにはどんなにお金積まれたってもう関わりたくないの――放してよ」
その手を振り払おうとする七香さんだったが、レスリング部で鍛え上げられた彼の手は、捕まえた獲物をやすやすと放したりはしなかった。
「なあ、そうつれないことを言うなって。一度は好き合った仲なんだからよ。もっとも――愛し合った回数は、一度や二度じゃねぇけどな」
相変わらず、下卑た言葉と笑い声が大きな口から吐き出された。この口からは、下品なものしか生まれないのだろうかと疑ってしまうほどだ。
「痛いって――」
なおも抵抗する七香さんを見るに見かねて、俺は口を挟む。
「先輩、いい加減にしましょう。嫌がってますよ、七香さん」
「あぁ――?」
俺の声を受けて、田村先輩は不機嫌そうに再びこちらを睨みつける。
「なんだオマエ、相変わらず
「いやあ、誰かみたいに上からじゃないと声をかけられないクレーマーみたいな人とは違うので。おかげでポイント貯まり放題なんですよ」
「そこまでしたって、まだヤラせてもらえてねーんだろうが。残念だったな」
「
そのまま周囲を指差してやる。
「みんな、残念な目で見てるでしょ?」
俺の一言で、学食中の冷めた視線がこちらに向けられていることに、先輩はやっと気づいたようだった。
もっとも――その視線が冷めている一番の理由は、彼の倫理観を弾劾するものではなく、憩いの時間を台無しにされたことに対する非難なのだろうが――興奮状態の田村先輩は気づきはしまい。
だからそれを利用させてもらった。
「なんだオイ、見せモンじゃねーぞ!」
「進んで見世物になったんでしょうに」
がなり立てる先輩に向かって、本来不必要な煽り文句を言ってやる。
こうすれば、おそらく――。
「てめぇ、さっきから先輩に向かって――!」
ここでやっと先輩は七香さんの肩から手を放し――代わりに俺の胸ぐらを掴んできた。思ったとおりだ。あとは一発殴られでもすれば、彼の荒ぶった気持ちも落ち着くかと思い、歯を食いしばる。
はたして田村先輩が右腕を振りかぶったところで――少しだけ予想外なことが起きた。
「もういいよ! やめてよ、浩二!」
そう言って彼の右手に抱きついたのは、誰あろう七香さんその人だった。
「解った、解ったから――一回くらいなら付き合うから――もうやめて、井戸屋にひどいことしないで」
「な、七香さん――?」
殴られて丸くおさめるつもりの事態が、予想外の方向へ向かい始めたことに気いた俺は、慌てて声をかけるも――すでに手遅れだった。
「本当か? 一回ならいいんだな?」
先輩の念押しに、七香さんはだまってうなずく。
「おう、そういうことなら許してやるぜ」
七香さんの態度に気を良くした彼は、あっさりと俺の服を掴んでいたその手を放した。
「へっへっへ。おかげでいい思いできそうだ。礼を言うぜ、井戸屋クン――なぁ」
笑いながら顔を近づけると、田村先輩はその他人を不快にすることしかできない口で、ありったけの嫌味を吐き出した。
「イキッた挙句、女にかばわれるとか――
屈辱的なセリフを突きつけられた俺は、先ほどは覚悟で食いしばった歯を、今度は悔しさで力いっぱい噛み締める。
そんな俺を見て、七香さんは静かに声をかけてきた。
「ごめんね、井戸屋。なんか、そんな
謝らないで――と俺が口にするより早く、彼女は言った。
「また今度、カラオケ行こうね」
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