【第八走】記憶
太陽が沈みかけ夕闇が迫る頃、俺はきっちゃんと別れ帰路へ着いた。
彼は案外、非日常的な体験を求めているのだろうか。
ふと、そう思ってみる。
おっとりした性格で、とても危険や刺激を求めるようなタイプには見えないきっちゃんだが――実はスリルやショックを好む
とはいえ――。
「彼女がいるなら、十分刺激的だろうになぁ」
国道を走りながらつい、口からつぶやきが漏れる。
それを尻の下のユキが耳ざとく聞きつけ、すかさず反応した。
「なによ、アタシのこと言ってんの?」
「ちげーよ。きっちゃんのことだよ」
どういう原理かは知らないが、コイツの声は走行中でもやけにはっきりと聞こえる。原付というマシンの特性上、さきほどから自動車が背後に迫ってはどんどん追い抜かれているのだが、そのエンジン音にかき消されることもない。つまり、やかましい。
「きっちゃんって、さっきのコよね? 可愛いかったわぁ。あのコなら喜んで彼女になったんだけど――大事にしてくれそうだし」
「あいにくだったな。きっちゃんには彼女がいるんだ、諦めろ」
俺もまさに今日知ったことではあるが。
「うーん、まあ――そうでしょうね」
「なんだよ、何を一人で納得してやがる」
「だってあのコ、アンタみたいにガツガツしてないもの。余裕があるっていうか」
「――どうせ俺はガツガツしてるよ」
なんせ、真偽も怪しい神社の噂話を鵜吞みにしたあげく、ホイホイ昼飯二日分を賽銭として投げ入れた男である。否定する気にもなれない。
「まあ、その行動力は評価するけどね。『草食系男子』とか『男子の女子化』とか言われて久しい今どき、彼女を作ろうと思って動き出せるのは、十分行動力はあると思うわよ。まあ――力のベクトルは間違ってると思うけど」
「――そりゃどーも、っとぉ」
急に俺の行動を肯定するようなことを言われて、少しハンドリングがよろめいた。
「何よ、動揺してんの?」
「うるせーよ。ってかさ――」
照れ隠しもかねて、ずっと気になっていたことを訊いてみる。
「お前、異世界転生者のくせになんでそんな現世に詳しいんだよ」
「ああ、それはね――転生するとき、一気に情報が流れ込んできたのよ。なんていうか、スマホに新しいプログラムがインストールされるみたいにね」
「たとえもやけに現代的だな」
「しょうがないでしょ、本当なんだから」
「じゃあ、前世の記憶は?」
「それは――」
返答に少しの間が空く。まるで何事かを逡巡するかのように。
いったい何を――と思った矢先、道路は今までの
信号は赤。
この交差点で左折をする俺は、左の
相変わらずユキは黙りこくっている。
返答を待つ俺は――目の前を通りすぎる自動車をぼんやりと眺める。
もはや日没も間近となり、周囲は暗闇に包まれ始めた。そのため、ほとんどの車はライトを点灯させて走っている。帰宅ラッシュでとめどなく流れる光の流れを見つめていると、自分はまだライトをつけていないことに気付いた。
まだ日差しの残るうちに出発したのだから、無灯火でも当然と言えば当然なのだが――俺は普段ならば、走行中でも暗くなる前にきちんとライトをつけるので――それにも気づかぬほど、ユキの回答に意識を割いていたらしい。
慌ててライトのスイッチを入れると同時に、ユキが再び口を開いた。
「――ない、わよ。
「本当かよ?」
「本当よ。さっき言った現世の記憶で上書きされたのよ」
「じゃあなんで即答しなかったんだよ。その程度のことなら、口の軽いお前はすぐに答えるだろ。らしくもない――」
いつもの調子で、俺はつい軽口を叩いた。
すると――。
「――アンタが、アタシの何を知ってんのよ」
やけにはっきりと聞こえるその声は、目の前を通り過ぎるダンプの轟音にも負けずに、俺の頭の中へと響いた。
その響きは、怒り――ではなく、悲しみにも似て――。
「――え?」
思わず俺は、間の抜けた声で問い返してしまった。
「――なんでもない。それより、乙女の過去にむやみやたらと踏み込むのは感心しないわよ」
ユキは答えず、無理に話題を方向転換させようとした。
「――そうかい」
「何よ、変に物分かりがいいじゃない」
「別に俺だって、四六時中
その言葉は嘘ではない。しかし、本音のすべてでもない。
ユキが本音を隠すなら、それに付き合ってやるのが「空気を読む」ということだ。言いたくない相手から根掘り葉掘り聞きだすのは、なんの得にもならない。まして『
「ま、それが賢明よね。そうやって言われる前にオンナノコの気持ちを察するのが、イイオトコってヤツよ」
その言葉に、思わずどきりとする。
「――さいですか」
「さいですよ」
なんとか絞り出した声に、ユキも同調した。
それが合図であるかのように、信号が青に変わる。
俺は前後左右のあらゆる車の流れに注意を払い、安全を確認して大通りへと進入すると、そのまま黙って運転に集中することにした。
いくら交通量が多いとはいえ、もう一年も通い慣れた道なので、緊張するということはない。別に先ほどと同じように会話をしながら運転をするくらいの余裕は、今の俺にはあるのだが――。
ただこれ以上、会話を続ける気分にはなれなかった。
『察してほしいのに――』
過去に言われた言葉が、ユキの言葉と重なる。
人の気持ちなんて、解るわけがない。
俺は
言ってくれなければ、言葉にしてくれなければ――。
苦い思い出に、思わず奥歯を噛みしめた。
そんな俺の気持ちを察してか、ユキも特に声をかけてくることはなかった。
たくさんの光が背後から近寄り、俺たちを追い越していく。
時たま光の流れが途切れると、ユキが照らす明かりはひどくか細いものに思えた。
そうだよな――。
過去なんて、ロクなもんじゃない。
だからそんなこと、訊いちゃいけなかったんだ。
彼女の過去を気にするなんて、ツマラナイオトコ――なんだから。
俺はか細い光を頼りにしながら、アパートへ向かって走り続けた。
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