【第六走】しあわせの黒猫

 夕暮れの駐輪場で、俺ときっちゃんは立ちすくんでいた。

 七香なのかさんとの思わぬやり取りのせいで、結局昼休みに駐輪場へ向かう時間は無くなってしまった。そのため、授業終わりのこの時間に、改めてこの場へやってきたのだが――。


 よりにもよって、俺の原付ユキの上で一匹の黒猫が寝ていたのである。


 この大学は山の中に立地しているため野良猫が多く、駐輪場に猫がいること自体もそれほど珍しくはない。だから、普通の猫ならば申し訳ないがどけてもらうところなのだが――今回は少々事情が違っていた。

 俺の通うこの大学には、黒猫にまつわる、ある言い伝えがあるのだ。

 それは、


 「大学に唯一現れる黒猫は、お腹に三日月模様を持っており、それを見たものは願いが叶う」


 ――というものだ。

 もちろん、あくまでも噂話である。俺だって、都市伝説のような眉唾物としか思っていなかった。

 なんせまず、黒猫自体の目撃情報が少なかった。稀に顔を見せたとしても、警戒心が強く決して人間に近づこうとしないらしい。聞いた話では、たまたま黒猫の姿を目撃して、興奮のあまり無理矢理抱っこをしようとしたとある生徒は、爪と牙で激しく抵抗されて手を何針か縫う怪我を負ったという噂もある。

 そのためこの言い伝えに関して、「本当にそんな黒猫がいるのか」「いたとしても本当にお腹に三日月模様があるのか」「ましてや願いなど本当に叶うのか」ということの真偽は不明なままだった。そもそも性別すら不明らしいのだ。

 そんな学内の注目の的である黒猫は、お腹の模様になぞらえて「ルナ」と呼ばれていた。


 その伝説の黒猫ルナが今――目の前にいる。


 しかもあろうことか、無防備な寝姿をさらしているときた。

 これは噂を確かめる、絶好のチャンスだと俺は思った。

 俺は昨日、願い事で散々な目に遭っているので、そちらの方面には興味がなかったが――それでも、お腹の模様は気になっていた。

 単純に物珍しいものを見たいという好奇心である。なんだか昨晩、喋る原付やら神を名乗る白髪の子供ガキやらと、色々と物珍しいものを見たような気もするが、きっと気のせいだろう。


 それはともかく。


 もぞもぞと動きながら、今にも寝がえりをしそうな黒猫を目の当たりにして、俺はあわてて横のきっちゃんに話しかけた。


「き、きっちゃん――」

「待って、絃やん。これ以上近づいたら起きちゃうよ。猫って、日中はいつでも動けるように、浅くしか眠らないんだ」

「よく知ってるね」

「彼女が猫を飼ってるからね」

「さいですか――」

「可愛いよ。見てみる?」

「とりあえず、またの機会にしようかな――それより」


 声を潜めてきっちゃんに確認する。


「あれってルナだよね?」

「多分ね」

「お腹、確認できるかな?」

「難しいんじゃないかなぁ――猫にとってお腹は急所だから、簡単に触らせてくれないんだよね。彼女の家の猫もそうだし」


 飼い猫ですらがそうならば、野良猫はなおさら警戒することだろう。やはり近づいて確認するのは良策ではないようだ。


「じゃあ――」

「そうだね、このまま寝返りを待った方がいいと思うよ」

「よし――」


 きっちゃんの助言に従い、距離を保った状態でスマホのカメラを起動する。撮り逃しのないように、シャッターを押す必要のないムービーモードだ。もちろん最大望遠状態である。横のきっちゃんも、同じくスマホを構えた。


 彼我おれたちとルナの差は約二メートル。


 いつ来るかもしれない寝返りに備え、スマホを握る手に汗がにじむ。わずかの音でも逃げられそうで、唾をのむことさえはばかられた。

 そうして今に来るであろうその時を、今か今かと待ち続けた。

 まだセミの鳴く季節ではなく、周囲には人もいないため、あたりに響くのは木々のざわめきと、俺たちの荒い息遣いだけだった。

 そしてついに、ルナが上半身をひねろうと首を動かす。

 決定的瞬間の訪れを察知し、俺はスマホを握りつぶしかねないほど強く握りしめた。きっちゃんはあまりの緊張に、俺の腕にしがみついてきた。

 永遠とも思えるほどの一瞬ののち、ルナの前足が動いたと思った瞬間――。




「へっくち!」




 という、緊張感のないくしゃみの音が響いた。


「うわぁああ!?」


 予想だにしなかった事態に、おれときっちゃんは思わず叫び声をあげてしまった。その声に驚いたのか、次の瞬間にはルナは素早く身を起こして、飛び去るように逃げて行ってしまった。

 絶好の機会を潰したのはもちろん――絶交したい機械である。


「ユキ、お前――なんてことしてくれんだよ!」

「え? あ。おかえり。何が? 横のコは誰よ?」

「寝ぼけてんのかお前!」

「い、絃やん――」


 詰め寄ろうとした俺の腕を、きっちゃんが引き止めた。突然発生した進行方向とは逆のベクトルの力によって危うく転びかけた俺は、慌てて後ろを振り向くと――眼を輝かせて彼は続けた。


「絃やん――僕にも聞こえるよ! 彼女さんの声が!」

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