【第五走】人も車も煽ってはいけない

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこには――おそらく、この大学で女性が立っていた。


「やっほー、井戸屋いどや。お元気?」


 俺を特異なあだ名で呼ぶ彼女の名は、桐野きりの七香なのかさん。

 同じ経済学部の一年先輩だが、昨年留年したため今年は同じ学年である。

 意志の強さを感じさせる黒目がちの大きな瞳に、少し大人びた印象を受ける茶髪のミディアムヘア。その毛先は肩のところでくるっと巻かれており、服装はまだ六月だというのに肩が剥き出しオフショルダーだ。

 そんな見た目の整った女性だが――彼女が人気なのは、それだけではない。


「ああ、どうも。七香さんもお元気そうで」

「相変わらずねぇ、井戸屋は。気さくに『ナナコ』って呼んでよ」


 そう言うと彼女は、軽くため息をつきながらわざとらしく肩をすくめてみせた。その仕草で、あらわになった白い鎖骨が嫌でも目につく。

 そんな彼女を見て、俺は少し眉をひそめた。


 そう――。


 彼女は学内では、本名の「七香なのか」を文字って、「ナナコ」と呼ばれている。

 その理由は、彼女は男からの告白を断らないから――有り体に言えば――彼女は、誰とでも一夜を明かす女と噂されているからだ。事実、俺の知る限りでも、一度に複数の彼女役を掛け持ちしていたこともある。だからといって、彼女自身も別段、金銭を要求したりはしないらしい。


 彼女と一晩を過ごすのに、面倒なことは何もない。

 ただ告白だけすればよい。

 現金いらずキャッシュレスの女――。


 そんなふうに噂された結果、某大手コンビニの電子マネーに見立てて、いつの間にか「ナナコ」と呼ばれるようになった――というのが、彼女のあだ名の由来らしい。


「お断りします。趣味じゃないんで」


 本人も自称する通り、彼女自身はその通り名をそれほど嫌がっているわけではないようだ。「尻軽なのは事実だしね」とも言っていた。それならば親睦の証として、相手の望むように呼んであげるのも大切かもしれない。


 しかし――。


 俺はどうにも、女性を金銭で評価するようなその呼び名が気に食わないのだ――男を渡り歩くような、彼女の行為も含めて。

 つまり、桐野七香という女性は俺にとって――「嫌ってはいないが、認めてもいない」という――曰く言い難い、なんとも複雑な感情を抱く相手なのである。

 だから俺は、彼女をあえて「七香さん」と呼び、敬語で話しかけることにしている。


「相変わらず頭がカタイのね。はい、これ」


 そんな俺の葛藤など知ってか知らずか、七香さんは俺の横の椅子に置いてあるトートバックを持ち上げてると、こちらに手渡してきた。「邪魔だ」という意思表示らしい。

 大人しく受け取ると、彼女は空いた席に腰掛けながら、お礼のかわりにひどい冗談を口走った。


「男が硬くするのは、別のところでしょうに」


 リップかグロスか口紅かは知らないが、輝くように潤う唇で、いちいち劣情を煽るようなことを言う。危うく飲んでいた水を吹き出しそうになった――が。

 もっともこれは、彼女がいつまでたっても態度を変えない俺の反応を見て、楽しんでいるだけなのだ。

 そうとは知らず、始めのうちは戸惑ったものの――知り合ってそれなりの時間が経つ近頃では、俺も遠慮なく言い返すことにしている。


「昼間から下ネタとか、熱でもあるんじゃないですか? そんな服装してるから風邪でも引いたんでしょ」

「ごめんね、童貞には刺激が強すぎるかな? そのわりにはしっかり見てたみたいだけど」

「夏はまだ先なのに肌を出したがるとか、季節感のない人は大変そうだなと同情してたんですよ。七香さんって時間の感覚バグってるんですか?」

「素直に『今夜のオカズありがとう、ナナコさん』って言ってもいいのよ、チェリーくん」

「あいにく、今夜の晩飯は肉を食うって決めてるんですよ。それに――七香さんは、じゃないですか。代わりになりませんよ」

「コンプライアンスの厳しいこのご時世に、堂々とセクハラするとかいい度胸じゃない」

「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ」


 いつも通り笑顔で火花を散らす俺たち。

 するとそこへ、


「二人とも、相変わらず仲いいねぇ」


 と、間延びした声が割って入った。

 声の主はもちろん、俺たちの掛け合いを笑いながら見ていたきっちゃんだった。


「ナナコさん、こんにちはぁ」

「きっちゃん、こんにちは。今日も相変わらず可愛いわね」

「そんなぁ、ナナコさんほどじゃないよ」

「嬉しいこと言ってくれるわね、きっちゃんは。井戸屋も見習わないと、彼女できないわよ?」

「それがね、ナナコさん。いとやんもついに彼女ができたんだって!」

「きっちゃん、ストップ!」


 慌てて止めに入ったが、時すでに遅かった。


「え、何――もしかして井戸屋、彼女できたの? 大学ウチのコ?」


 興味ありげに人の顔を覗き込んでくる。その大きな瞳には、好奇の色が満ち満ちていた。どうして女性は、こうも他人の恋バナってやつが大好きなのかと額を抑えていると――。


「それがね、原付なんだって!」


 きっちゃんが興奮したように語った。


「――は?」


 さきほどまでの好奇心はどこへやら。

 きっちゃんの言葉を聞くや否や、七香さんの表情は途端に嫌疑の色に染まった。

 そんな彼女の変化も気にせず、なおもきっちゃんは続ける。


「絃やん、原付と話ができるようになって、付き合うことになったんだってさ」

「井戸屋アンタ――頭大丈夫?」


 ついに正気を疑われた。


「ええ、おかげさまで平気ですよ。六月に肩出して歩いてる人よりはよほどね」

「悪いけど――世間的には、『原付を彼女呼ばわりしている人間』のほうが、よっぽどヤバイわよ」


 さすがにこれは、返す言葉もない。


「それで、彼女さんにあいさつしに行こうって話してたんだよ」

「井戸屋の妄想に付き合ってあげるなんて、きっちゃんは優しいわね」


 七香さんが、わざとらしく目頭を押さえる仕草をする。


「それでさ、せっかくだからナナコさんもどう?」

「きっちゃんのお誘いは魅力的だけど――遠慮しておくわ。童貞の現実に押しつぶされた、井戸屋の無惨な姿なんて――私じゃ受け止めきれないもの」

「そうしてくださいよ。こっちも余計な茶々を入れられなくて助かりますんで」


 ――駄目だ、返しの切れ味が鈍い。

 さすがに「原付が彼女の男」などというパワーワードを与えてしまっては、よほどのことがない限りやり返せない。

 そんな俺の降参を察し、本日の勝利を確信した七香さんは、余裕たっぷりに最後の言葉を投げつけた。


「今まで意地悪なこと言ってごめんね、井戸屋。今度お詫びに、合コンでもセッティングしてあげるから、それまでに正気に戻ってね。じゃ――」


 そう言って席を立つと、そのまま彼女は去って行った。


「うぐぐ――」


 煽り合いに負けた悔しさが身体中を巡った俺は、思わずうなり声を漏らした。

 今日の昼食は、食べ物のかわりに悔しさを噛みしめ、敗北感で腹ではなく胸が詰まるという、非常に屈辱的な時間となってしまった。


 畜生――今に見てろよ、桐野七香。


 リベンジを決意し、俺は残ったグラスの水を一気飲みする。

 きっちゃんはそんな俺を、不思議そうに小首をかしげてただ見つめるだけだった。

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