わたしはだれ?

下月いつる(シバエリカ)

わたしはだれ?

娘さんが夜明け前から厨房に立ち、右手に持ったお玉で鍋の汁をすくい上げる。左手は腰に当て、お玉ですくった汁をそっと口に運ぶ。


薄い唇を固く引き結び、左右にもごもごと動かし、舌の上で汁を転がす。ごくり、と喉のなる音がした。


丹念に味見をした娘さんは左手で小さくガッツポーズを決め、すでに茹でられていた丸くてつるんとした手のひらサイズのキュートなボディを持つ私を鍋の中にそっと沈めた。


黒い煮汁の中は温かくてゆるやかに沈みゆく私の全身を優しく包み込んでくれる。ゆらゆらと水中を泳ぐ魚のように鍋底まで下がっていく。


ああ、彼は私のことを受け入れてくれたのね。


黒い煮汁はコトコトと弱火で適温に保たれ、プクプクと小さな気泡を楽しげに踊らせている。


ふふ、と微笑んだ私に気付いた彼はリズミカルにぽこぽこと泡を生み出し、私の周りでくるくるとステップを踏ませダンスに誘ってくれた。


殿方のお誘いを断るなんて失礼に当たるわね。


私はキュートなボディで跳ねまわり、彼とともに時間の許される限り煮込まれ続けた。過ごしやすくて快適な温度だった鍋の中は、少しずつ冷えていく。


寒いわね、と私が震える。彼はもう少しの辛抱だ、と励ましてくれた。


鍋の中が冷たくなり、私たちは娘さんが蓋を開けてくれる瞬間を心待ちにする。


ぐらりと鍋の中身が大きく傾き、きっと持ち上げられたのだと察する。いよいよだわ、と私は胸の高鳴りを感じた。


しかしバタン、と扉の閉まる音。

いつになったら蓋が開くのかしらと待ち続けているうちに、冷めた黒い煮汁の温度はさらに下降していき、脂が固まりはじめる。


彼は私にサヨナラと言った。私は冷えて脂の塊となってしまった彼のことを思い、涙を流しながら自分の体も凍えていき意識が遠のいていった。


娘さん、私はあなたに食べてもらいたかっただけ、なのよ……それも叶わない願いなのね……さようなら。




「おはよう」


優しい声がして目覚めると、彼が黒い煮汁を誇らしげに揺らしながら私の身体を温めてくれていた。

私は身体の芯から温まり、つるんとしていたキュートなボディがさらに艶を増し、彼とお揃いの色に染まっていることに気付く。


「まあ、素敵! なんて美味しそうなの!」


私が感極まって言うと、彼までとても美味しそうだと褒めてくれるものだから恥じらいのあまり中身が爆発してしまうところだったの。


ああ、だけど今度こそ本当にお別れだわ。


でもでも!


少し悲しいけれど私はとても幸せな気分だった。だってもうすぐ美味しいと、最高の褒め言葉をもらえるはずだもの。


真っ暗だった鍋の中に光が差し込んできた。明るくなった天を仰ぐと期待に瞳を輝かせた娘さんの姿。


「さようなら、黒い煮汁さん。あなたと過ごす暗闇の鍋の中はとても幸福な時間だったわ」

「さようなら、丸くてつるんとした愛らしいお嬢さん。僕の色に君を染めることができたのは身に余る僥倖だったよ」


私と黒い煮汁さんは笑顔でさよならをした。


私の身体をお箸で優しく持ち上げてくれた娘さんは、大きな口を開けて私のことをぱくり食べて優しく味わってくれたのよ。


「んん〜っ! 美味しい!!」


娘さんが上手に味付けしてくれたおかげで、私はただの白い平凡な茹で卵から人気物の味玉に変身できたのよ。


美味しいものになれて、みんなを笑顔にできるなんて最高に幸せな瞬間だわ。


「美味しい!」の言葉だけで幸せな気持ちになれる。


私は、とても幸福な最後を迎えられて果報者なの。

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わたしはだれ? 下月いつる(シバエリカ) @akisuzu1112

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