七花香る園の陰に〈九〉

「坡山殿、あの……」


 しばらく歩いていったところで、杏李は声をかける。一歩を踏み出すたびに、冷気が強まるのを感じた。

 それは杏李にあの日を思い起こさせた。異形いぎょう霊魔かいぶつに襲われた時と同じ寒気が走るのだ。


「杏李様、お下がりください」


 前を行く坡山が急に立ち止まり、腰を落として刀の柄に手をかける。鯉口こいくちが泣き、すらりと美しい刀の身があらわになる。その場の空気も清浄なものとなるようだった。しかし、坡山の声は焦りを含む。


「……か」


 紫黒しこくの靄に包まれたは、刀を持ち、人の形をしているように見え——かつ、人外の気配を纏っていた。


「あれは……人?」

「いいえ。霊魔に堕ちた花守です。杏李様、急ぎ朝霞へ。朝霞の霊境は健在です」


 そこまでは追っては来られまい、ゆえに逃げろ、と坡山は言っているのだ。


「あなたも一緒に、」

「これを片付けなければ誰かが襲われるやもしれません。民を守る我ら花守が、民に刃を向けるなどあってはならない。ここで始末します」


 言い終わらないうちに、霊魔がゆらりと動いた。坡山は大きく踏み込んでそれを迎え撃つ。白刃が嚙み合う甲高い音が響いた。


「杏李様!」


 鋭い声を受けても、体が金縛りにあったように動かない。霊魔の赤い瞳がじっと、杏李を見つめているのだ。


魅入みいられてはなりません! 気をしっかり持って! そうだ——〈無銘〉を!」


 その言葉に、杏李は我に返った。刀袋から滑り落ちた脇差を拾い上げ、鞘から抜く。研ぎ澄まされた光に杏李は生唾を飲み込んだが、それを見ているとだんだん心が落ち着いてきた。


 ここに留まっていては足手まといだ。離れなければ。杏李が顔を上げた瞬間、坡山の悲鳴が上がった。


 振り返れば、坡山が血溜まりの中にうずくまっているのが視界に飛び込んできた。霊魔は首を落とされ転がっていたが、その刀が坡山の腹を貫いていた。

 致命傷である。言葉を失う杏李の前で、坡山は悶え苦しむ。杏李が駆け寄ろうとすると、坡山は手でそれを制した。


「なりません! 離れて……お、俺は……あなたを傷つけてしまう……!」

「坡山殿……?」


 坡山の言っていることが飲み込めず、杏李は呆然と立ち尽くす。その目の前で、坡山から凶々しい気配が立ち上り、その身を包んだ。


 霊魔化。杏李の脳裏に言葉が浮かぶ。深い疵を受け、瘴気に侵されきった魂は、そのうつわせしめる——幽世かくりよの徒、霊魔へと。


 おぞましい叫び声とともに、坡山のうつわはその形を失った。首を落とした霊魔の亡骸むくろをも取り込んで、ぎしりと鎌首をもたげる。


 その赤い瞳が杏李を捉える。杏李は恐怖に支配され、その場にへたり込んだ。異形の振るう腕が杏李の華奢な体を抉り、鮮血が散り悲鳴が上がる。


(どうして、こんなことに)


 倒れ伏した杏李の視界の端で、刃が輝いた。〈無銘〉——杏里の血に濡れながらも、それは美しさを損なわない。杏李はほぼ無意識のうちに、柄を握りしめていた。


(死にたくない……!)


 混乱する頭の中で、その意思だけがはっきりと束ねられる。

 途端、鉛のように重かった体が羽のごとく軽くなり、杏李は立ち上がった。杏李を取り込もうと近づいていた霊魔が動きを止める。その一瞬の隙に、刀を振るった。


 刀に導かれるように、ごくごく自然に、そして美麗な弧を描いて振るわれたそれは、霊魔の腹を深く深く切り裂いた。


ね——化け物!」


 この異形の体から、坡山の魂を解放してやらねばならない。背の痛みも忘れ、杏李は自らの手が傷つくことも構わず、刀を振るった。


「は、」


 一閃、月光の下に断つ。


 首を落とされた霊魔は倒れ伏し、動かなくなった。杏李は血塗れになりながら、肩で息をする。


 その瞳は金色こんじきに輝き、やがて、落ちる瞼によって隠された。

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