七花香る園の陰に〈八〉

 榎坂から朝霞へ、南西周りで羽柴に入る。御成門おなりもん方面はすでに瘴気が満ちているため、そこまで足は伸ばさない。一月の冷気を肌に感じながら、目的の薬を手に入れると、診療所を出た。


「思ったより時間がかかってしまいました」


 時刻は午後四時半。診療所が混雑していたこともあって、昼過ぎに出たというのに日はだいぶ傾いてしまっている。来た道を戻っていたら、花霞邸の門限には間に合わない。


「坡山殿、」

「いけません」

「まだ何も言っていないのですが……」


 北を見ていた視線を坡山に戻すと、彼は呆れた様子で首を横に振った。


「ここでさえ瘴気が薄ら混じっているのに、危険だと言われている場所のそばをわざわざ通り抜けるなんて、何かあったらどうするのです」

「瘴気が?」


 杏李は反射的に胸元に手をやった。瘴気を吸うと肺腑に焼けるような痛みを感じるという。診療所に詰めかけていた患者に空咳が多かったのは、単なる風邪ではなかったのだ。坡山も肺腑に違和感を覚えているのか、胸元を手で探る。


 しかし杏李とはいうと、さっぱり健康体であった。首を傾げる杏李に、坡山は続ける。


「深山の血には〈穢れ〉を寄せ付けない力があると聞き及んでおります。あるいは、〈無銘〉殿のお力かもしれません」

「この刀の……」


 杏李は片手に提げた刀袋を持ち上げた。それをじっと見つめた後、おずおずと坡山に差し出す。坡山はその行動に目をみはり、そして笑った。


「ああ、どうぞお気遣いなく。私は花守です、ご心配には及びませんよ。それに、私の刀は少々気が早くて。他の刀に触れようものなら、それはもうかんかんに怒るのです」

「まあ……」


 杏李は目を丸くした。霊的事象を感知できない杏李は、彼らのことをほとんど知らない。付喪つくもだというから清廉せいれん静謐せいひつな印象を持っていたのだが、どうやら思った以上に人間らしい。


「あなたもそうなのかしら?」


 〈無銘〉を目前にかざして語りかける。返事はもちろん、ない。杏李には聞こえないのだ。坡山を見るも、苦笑いで肩をすくめるだけである。

 刀霊としての〈無銘〉は喪われ、今は神気が残るのみだという。それでもなんだか、誰かがそばにいてくれるような暖かさを感じていた。


「深山様は、七香様とは雰囲気が違いますね」


 だが、坡山の口から姉の名が出た瞬間、すっと心が冷えた。急速に喉が乾き、慌てて返事を探す。

 ここで押し黙ってしまっては不自然だ。何か言わなくては。


「姉を……ご存知なのですか?」


 坡山は深山の花守ではない。古谷守護の花守で、あの日は榎坂参集のちょくが下された後、最短の道ではなくわざわざ深山の生存者を探しながら榎坂へ向かう道をとった。

 その理由を、杏李は問うたことがない。だが姉と知り合いだったのなら納得はいく。姉を救うために、駆けつけたのなら。


「一度お目にかかったことがあるのみです。一言二言お言葉をいただいて、それきりでした。あの方は……そうですね、花に例えるなら梅の花、杏李様はやはり、お名前の通りあんずすももでしょうか。私はどちらも好きなのですが、杏李様はどちらがお好みですか」

「えっ? ええと、私……」


 杏も李の花も見たことがない。桜は庭に植わっていたためかろうじて分かるが、見分けられるほどの特徴があるかもわからない。思い悩んだことも忘れるほど混乱して、杏李はぱたぱたと顔の前で手を振った。


「わ、私、どちらの花も知らないんです。でも、どちらもかわいらしい響きですね。美味しそうです、選べません……」


 何を言っているんだ。言うに事欠いて美味しそうとは。頬がとても熱い。顔を手で覆い、ちらと指の隙間から坡山の様子を伺うと、坡山の頬もまたほんのり染まっていて、おやと杏李は思った。


「あ、ああ、はい! 杏も季も桜と一緒に春に咲く花で、初夏に美味しい実をつけます。その……花が咲く頃、お教えします。御用邸の庭には、どちらも植わっておりますので」


 坡山は早口に言い切った。顔を上げると視線がかち合い、しばし言葉もなく見つめ合う。それが妙に気恥ずかしくて、慌ててお互いに顔を背けた。


「い、行きましょう。ずいぶん話し込んでしまいました」


 薬を届けるという本来の目的を思い出し、ずんずんと杏李は歩き出す。その後を、坡山が慌ててついてくる。


「杏李様、そちらは瘴気が濃い方向です。今は逢魔時おうまがとき、万一をお考えになってください。本日のところは朝霞邸で休息し、明日神鷹様のもとへ参りましょう」


 坡山が杏李の手をとる。引き止めるために咄嗟とっさにとった行動だったのだろう。しかし杏李は驚いてしまい、ぱっとその手を振り払ってしまった。


「ご、ごめんなさい」

「いえ。お気になさらないでください。私も、ご無礼を……」


 二人の間に気まずい沈黙が流れる。しばしの間もじもじと立ち尽くしていた二人は、どちらともなく歩き出した。


「花霞に戻りたい、です……少しでも早く、朝霞様の苦しみを和らげて差し上げたいのです」


 杏李がぽつぽつと呟くと、少しの間を挟んで、坡山がはいと頷いた。


「杏李様をお守りします。仰せつかったことですので」


 坡山はできるだけ危険な場所に近寄らないよう様子を伺いながら、近道をゆく。その後をついていきながら、暮れなずむ空の禍々しい色合いに、杏李は一抹の不安を覚えていた。

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