七花香る園の陰に〈五〉

 朝霞家当主が深山家の令嬢をめとるという話は、瞬く間に広まった。直前まで深山家の七香は囲家の継嗣である斉一との縁談が持ち上がっていたため、その一報は夕京市の花守たちを驚かせた。


 朝霞家当主・神鷹の持つ霊力は、お世辞にも高いとは言えない。忌憚きたんなく言えば並みである。古来より純度の高い霊脈を保ってきた五家において、神鷹は異端であった。その、霊力に見合わぬ、神剣ともうたわれる剣術の実力も含めて。


 数多の冷笑と雑言を跳ね除け、名に足る力を示してきたからこその成功であると一部の人間はもてはやし、お互いに一目惚れだったという噂が広まれば、年若い少女たちは夢見心地に二人の仲を語った。


 物語のような二人の恋。その影で踏みにじられた想いがあることを、誰も知らない。


 神鷹と七香の縁談が取りまとまった直後、杏李にもまた声がかかっていた。杏李が毛嫌いする斉一との縁組みだった。

 七香との縁談が白紙になり、ならば妹をと慌てたのだろう。囲家との繋がりをも求めた父はそれを利用した。でなければ、器の質にこだわるあの男が、霊力のない杏李を選ぶはずがないのだ。


 少し前までの杏李なら、ふざけるなと憤慨しただろう。毒を含むことまで考えたかもしれない。だが、一縷いちるの望みも潰え、抜け殻と化した杏李はそれを受け入れてしまった。


 この地獄から出ていけるのなら、どこでもいい。


 だが結局、その縁談もなかったことになった。杏李がそれを知ったのはやはりずいぶん後だったのだが、深山家と縁繋がりとなった朝霞家が裏で手を回したのだ。

 斉一はこのことで一門からの評判をかなり落としたという。当主である囲麗華は斉一への家督継承を無期限で延期し、帯刀を許さなかった。


 そういった目まぐるしい世から隔離された場所で、杏李は。心を閉ざし、見ることも聞くこともなく、ひっそりと生だけを繋ぐ。誰にも省みられることなく、日毎に弱っていった。


 絶望で、人は死ぬのだ。寝台に横たわり乾いた咳をしながら、杏李は考えていた。涙は枯れ果て、声を最後に出したのはいつだったか。今日は、何日だったろう。

 目を開け、壁にかかった日表にっぴょうを見やる。


 慶永六年、九月一日——時刻は、正午十二時。


(……?)


 ふと、杏李は外が静かすぎることに気がついた。離れとはいえ、杏李が呼べばすぐ駆けつける程度の人はいる。もっとも、杏李はほとんど呼びつけたりはしないのだが。


 杏李はそっと身を起こした。いつも以上に部屋が薄暗い。


(明かりを……)


 ひとまず明かりをつけようと蝋燭に火を点そうとしても、うまく行かない。燐寸マッチが湿気っているわけでもなく、火が点いたそばから搔き消えるのだ。五、六本ほど試したところで杏李は燐寸を置き、そっと寝台から抜け出した。


 机の上の呼鈴ハンドベルを鳴らす。いつもなら、これで部屋の扉が開かれ、使用人が顔を出す。だがどれだけ待っても扉は開かない。

 もしや、完全に見捨てられたのか。暗い考えがよぎると同時に、何かおかしいという違和感が湧いて出てきた。


 もう一度鈴を鳴らす。それが、合図となった。


 ぎしり、と廊下の床板が鳴る。


 ぎしり、ぎしり——それはゆっくりと、杏李のいる部屋に近づいてくる。何かを引きずるような音もする。人の足音でないことは、すぐに分かった。

 一歩、一歩と距離が近づくたびに、部屋の温度が下がっているような気さえする。杏李は鈴を持ったまま、立ち尽くしていた。


 直感が告げる——何かよくないが、いる。


 手から滑り落ちた鈴が床に落ちて、跳ねた。その瞬間、部屋の扉が


「……っ!?」


 乾いた喉に張り付いて、声は出なかった。

 壊れ、倒れた扉の向こうに立っていたのは、赤い瞳の異形かいぶつ——異形ばけものとしか言いようのない、醜悪な出で立ちのだった。

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