七花香る園の陰に〈六〉

 はっと飛び起きる。より正確には、目の前の脅威から逃げ出そうと手足を動かしたところで目が覚めた。華奢な腕が宙を掻き、勢い余って上体が起きる。浅い息遣いと早鐘を打つ鼓動の音がやけに大きく聞こえた。


(夢……、)


 見慣れない壁にかけられた日表を見やる。

 日付は——慶永七年、一月三日。時刻は早朝、午前五時。


 日ノ国の都を襲った大霊災、〈霊境崩壊〉から四ヶ月あまり。杏李の身は、夕京市の南西部、榎坂の地にあって、勅命によって参集した花守たちの庇護下にあった。


 あの日、深山の地は瘴気の満ちる焦土と化した。丸奈川を挟んだ東側、古谷もまた同様の被害を受けた。現世うつしよ幽世かくりよが繋がり、霊魔と呼ばれる異形の軍勢が現世に流れ込み、多くの命を奪い、今もなおその勢いは衰えることを知らない。

 杏李はたまたま偶然、深山邸を通りかかった花守によって救出された。深山家も花守を多数擁していたにもかかわらず、その全てがされ、離れにいた杏李だけが運良く難を逃れていたのだ。霊魔が跋扈する中、その花守は呼鈴のかすかな音を頼りに離れに急ぎ、霊魔に襲われていた杏李を助けたのである。


 花守——それは、滅魔の力を持つ刀霊と契りを結び、霊魔に対抗しうる唯一の存在である。杏李にはその力は備わっていないが、花守は人々を守護する使命を帯びている。そのようにして助け出された杏李は、として臨時政府の置かれた榎坂へと運ばれ、朝霞家の神鷹と再会したのだった。


 神鷹は杏李を出迎えると、何も言わずに杏李を抱きしめた。突然のことに戸惑う杏李に、今にも泣き出しそうな声で一言、すまないと告げて、杏李はしばらくその言葉の意味を考えることになった。


 神鷹が、皆が望んだ生還者は、きっと、他の誰でもない、姉だった。


 鈍い思考がたどり着いた答えに、杏李はごめんなさいと震えるしかなかった。救われるべきは己ではなかった。ずっと望んでいた温もりに包まれている安堵感を嫌悪しながら、ただただ許しを乞うた。壊れた人形のように謝罪を繰り返す杏李の頭を、神鷹はその気が落ち着くまで撫で続けていた。


 朝霞の被害もまた甚大であった。幸い民や土地への被害は軽く済んだのだが、そのためにあまりにも多くの花守が命を落とした。神鷹の父母をはじめとする血縁はほぼ霊魔との戦いの中で命を落とし、朝霞一門の花守は養育中の幼い子供達を残すのみとなった。

 それでも、戦いを止めるわけにはいかない。依花天皇の勅命により榎坂に集められた花守たちは、囲麗華ならびに参謀・羽瀬ハゼ斎宮イツキを中心に態勢を立て直し、桜路町区奪還と、残された山郷、囲、朝霞の霊境の死守を掲げる。


 しかし、際限なく湧き出す霊魔の勢いにされ、ついに五家の一角である朝霞家当主神鷹が倒れる。前線で剣を振るい続け、魂に負ったきずうつわに影響を及ぼし始めていた。彼の佩刀はいとうである打刀〈無銘〉も折れ、継戦不能となった神鷹は、この榎坂御用邸〈花霞かすみ邸〉で療養を余儀なくされている。


 杏李は寝台を抜け出し、手早く着替えをすませると、隣の部屋で眠る神鷹の様子を見に行った。

 深い眠りの中にあるのか、杏李が寝台のそばに腰を下ろしても目覚めることはなく、薄い胸がかすかに上下していることで生きているということがわかる。

 少し痩せた、と杏李は思った。肌は白く、起きている時間よりも眠っている時間の方が長い。魂に負った疵はそれほど深く、癒やすのに時間を要するものなのだ。


(もし、私が戦えていたなら)


 深山家の霊脈を継ぐ者として生まれていたならば、神鷹一人に全てを背負わせることはしなかっただろう。杏李は寝乱れてややずり落ちた布団を整えると、自分の部屋に戻ろうと廊下に出た。


「おや? お早う、杏李殿」


 聞き慣れた声に、自室の扉を開けようとした手を止めた。自然と眉根が寄る。

 振り返らずとも分かる。この声は囲斉一、禁闕きんけつ守護しゅごの近衛師団の一員であり、御用邸であるこの花霞を警護する男のものだ。最も会いたくない人物と出くわしてしまい、思わず溜息が漏れる。


杏李です——」


 振り返りつつ訂正すると、斉一の腕が伸びて扉に手をつき、杏李を壁際に追い詰めるような体勢になった。距離が近いという抗議も含めて睨みあげると、斉一は目をすがめてわらう。


「神鷹くんの義妹いもうとなら朝霞だろ。別に、第二夫人あとがまなんて言ってるわけじゃない」


 ねっとりと張り付くような悪意に、杏李はますます不快感を覚えた。

 神鷹は杏李を保護するため、養女として杏李を朝霞家に迎え入れた。このため、神鷹と杏李は深山家との婚姻上の義兄妹ではなく、同じ戸籍の兄妹となっている。そのことを、斉一はことあるごとに揶揄やゆするのだ。


「離れてくださいますか」

「いやなに、朝霞の御当主の寝室から君が出てきたからね、と思って」


 訴えを無視し、あからさまに下卑げびた笑いを浮かべる斉一のふざけた態度に、杏李はぐっと口を引きむすんで堪えた。

 下手に口答えしては駄目だ。付け入る隙を与えることになる。斉一は、朝霞家に、特に神鷹に異様な執着を見せる。それが愛憎などというかわいらしいものではないことを、杏李は理解し始めていた。そしてそれは、杏李に対しても。


「愛した女と瓜二つの顔の相手に欲情しないなんて、朝霞様は本当に見上げた紳士だな。ああそれとも、必死に隠しているのかな。なあ杏李殿、君はどう思う?」


 白手袋をはめた手が、杏李の着物の帯に触れ、腰を撫でた。ぞわりと身の毛がよだつ。杏李は考えるよりも先に、身の危険を感じて斉一の頬を平手で張り倒した。


 二人の他は誰もいない廊下に小気味良い音が響く。手加減なしで振り抜いたためか斉一はよろけ、たたらを踏んだ。


「お前……!」


 赤くなった頬を拭い顔を上げた斉一は、怒りをあらわにする。伸びてきた手を振り払うことができず、指が襟にかかった。


「何をしている?」


 その瞬間、咎めるように鋭い声が飛ぶ。見れば、部屋の扉が開いて神鷹が顔を出していた。顔色は悪いが、その眼光は抉るように斉一を睨みつけ、かつかつと歩いてくると硬直する二人の間に割って入った。

 珍しく怒気をはらむ神鷹の様子に気圧けおされてか、斉一は一瞬たじろぐ。


「……君の躾のなっていない義妹殿に、自分の立場というものを分からせてあげようと思ったんだ」

「不用だ。杏李に触るな」


 厳しい声に斉一は口をつぐむ。しかし神鷹に「命令された」のが気に食わなかったのか、「は!」と失笑し、神鷹の胸ぐらを掴んだ。


「そうだね。俺としたことが順番を間違えていた。躾けるならお前からだよなぁ? 刀も折れ、花守として名実ともに役立たずになった、朝霞家の御当主——様!」


 斉一は力まかせに腕を振り抜き、神鷹を床に叩きつけた。普段の神鷹ならば、こと組手で遅れをとることなどない。だが、今は体も弱り、衰えている。杏李はひゅっと息を呑み、倒れた神鷹に駆け寄ろうとして、斉一に阻まれた。


「実に気分がいいね。お前をこうして甚振いたぶれるのは何年振りかなぁ? 霊力もほとんどないくせに頑張っちゃってさ」

「おやめください、囲様——」

「杏李! 黙っていなさい!」


 斉一を制するために一歩踏み出した杏李を、神鷹の声が押しとどめる。もう、斉一の目に杏李は映っていない。浅く息を吐いて身を起こす神鷹の前髪を、斉一は荒々しく掴んでぐっと引き上げる。


「なあ、。お前が俺にこうべを垂れるなら、お前の大事な義妹殿には手を出さないでおいてやるよ」


 斉一が神鷹に向ける感情は、支配と征服である。

 才に恵まれながらも認められずくすぶり続ける男には、才無き者が必死で手に入れた輝きが眩しすぎるのだ。

 だから、穢したい。

 だから、屈服させたい。

 組み敷いて、どちらが支配者なのかを分からせる。


 杏李の位置からは、斉一の背が邪魔になって神鷹の顔は見えない。だが、神鷹が静かに頷いたのは分かった。

 瞬間、哄笑こうしょうが響き渡る。耳障りなそれに、杏李は奥歯が砕けるかと思うほどに歯を食いしばった。

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