七花香る園の陰に〈三〉
それからしばらくの間、杏李と神鷹は並んで他愛のない話に花を咲かせた。天気の話から異国の菓子の話まで、神鷹はぼーっと眠そうにしていたかと思えば、想像もつかないほどすらすらと
「杏李はよく僕の話を聞いてくれるね」
ふと語るのをやめて、神鷹は少し照れ臭そうに笑った。
「
囲。囲斉一。その名が出た瞬間、杏李はむっと眉をひそめた。
杏李はあまり、あの青年が好きではない。あまり表に出ることがない杏李だが、斉一は目立つ。ゆえにその言動も目に耳にすることがあった。
第一印象は最悪で、杏李を七香と間違えた上に、「上質な深山の霊器」——霊脈に恵まれた子供を産む価値しかない女と言ったのだ。それだけでも屈辱的だというのに、将来は囲の子を産ませてやるだの、女の幸せだのを説かれてはらわたが煮え繰り返ったのを覚えている。
「私はあの男が嫌いです」
それに始まり、斉一の数々の無礼な言動を思い出した杏李は、はっきりと口にした。皆の前では当然慎むべきことだが、今は神鷹と二人きりである。構うものかと菓子をぱくつく。
神鷹はちょっと驚いたように目を瞬いた後、くすりと微笑んで、杏李の口の端についた食べかすを指先で拭い取った。
「急いで食べると喉に詰まるよ」
「し、失礼しました」
神鷹は杏李の憤慨をたしなめることなく、うんうんと頷きながら話を聞く。事情を知ると、「それは斉一が悪いね」と苦笑した。
「でも彼は、父君の教えに従順なだけなんだ。それは彼が大事にしているものなんだよ。たとえそれが、他人にとっては腹立たしいものであってもね」
「……朝霞様はお優しいのですね」
「理解する努力の大切さを知っているだけだよ。僕が彼を否定しないことで、傷つく人もいるだろう。現に、君は納得したかい」
「いいえ……」
神鷹の主張はきっと正しい。だが、神鷹はその正しさを尊ぶことはしない。杏李が斉一に抱く嫌悪感も、あって当然と認めてくれる。
「杏李は賢い子だ」
神鷹の手が杏李の頭を優しく撫でた。その感触の心地よさに、杏李は目を細める。
この人といると、心が安らぐ。常日頃杏李を苛む黒くもやもやとした感情がたちどころに晴れていく。
もっと一緒にいたい。ずっとお喋りをしていたい。彼は、深山七香ではなく、その影に押し込まれた存在を見つけ出してくれた。きっと、この人の隣が、私のいるべき場所だ。
「朝霞様」
「うん?」
「私を、朝霞様の——」
お嫁さんにしてください。
そう言い終わらないうちに、肩を強く引かれた。口を噤んで振り返ると、いつになく険しい表情の父が立っていた。
「失礼、神鷹殿。これがご迷惑をおかけしなかったかね」
大きく骨ばった手は杏李の肩を掴んだまま離さない。いつものように、物を扱うようなぞんざいさで杏李を背に隠す。
はたから見れば『愛娘を年頃の男から引き離す父親』に見えるのだろう。しかし実のところ、杏李への評価は『役立たず』以外の何者でもない。
神鷹は、現実に引き戻されて絶望に沈む杏李の表情をじっと見つめた。それから、一呼吸置いて深山の当主と向き合い、ゆるく首を横に振る。
「いいえ、深山殿。私が暇つぶしにご息女をつき合わせていたのです。話を聞くのがお上手でいらっしゃるので、私のわがままでつい引き止めてしまいました。申し訳ない」
神鷹は慎重に言葉を選んでいるようだった。大っぴらに杏李を庇えば杏李の立場が悪くなる、そういう手合いを前にしていると理解したらしい。それ以上は語ることもなく、杏李は父に連れられてその場を後にした。
名残惜しく、父に気づかれないようちらりと振り返ると、神鷹はのろのろと茶器の後片付けをしていた。
杏李の視線に気づくと、寂しそうに、気遣わしげに笑う。その表情が目に焼き付いて、杏李は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
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