お兄さんにはお兄さんなりの事情がある

 ぴんぽーん、気の抜けたチャイムの音に、シトリーは玄関を開けた。

 そこにいたのはみつあみ姿の女性で、手に板状の何かを持っていた。シトリーを目に留めた女性が、一瞬の驚いた顔のあと、快活な笑みを見せる。


「ハルちゃんのお兄さんやったっけね? はい、回覧板です」

「はあ……。ありがとうございます。シトリーといいます」

「私はハンナいうと。じゃあね、お隣さん回してね」


 にこにこと微笑み、ハンナが逆隣のお隣さん宅の方角を指差し、手を振る。ばいばいとしたそれに合わせて、人好きの笑顔でシトリーも手を振り返した。

 ぱたん、玄関の扉を閉めた青年が、しばし呆然とその場に佇む。唐突に急ぎ足で廊下を突き進んだシトリーが、勢いのまま居間の扉を開け広げた。


「メアちゃん!! 俺ってそんなに魅力ない!?」

「何を騒いでいるんですか。ハル様の御前ですよ」

「あのハンナって人、頬すら染めなかった! 全然魅了効かなかった!!」

「ミスハンナに何をしているんですか」

「ハンナさん、来てたのか!?」


 呆れ顔のメアと、ぱっと表情を輝かせたハルを置いて、シトリーが両手で顔を覆う。わあああんっ、泣き声を上げながら彼が叫んだ。


「俺、これでも悪魔なのに! 地獄の君主なのに!!」

「権力を振り翳さないでください。めんどくさい男は嫌われますよ」

「女の子だったら、許された? メアちゃんと被ると思って、青年タイプにしたんだけど?」

「女性型になった暁には、業務妨害で訴えますのでお覚悟を」

「ほら、そういう!! 渋さ? 渋さが足りないの? もっと色気で攻めなきゃだめ?」

「ハル様、おやつにホットケーキを焼きますね」

「わーい!!」


 メアはシトリーを放置することを選んだらしい。冷めた目で地獄の君主を一瞥し、柔和な笑顔でハルへ向き直る。喜びのまま両手を上げた幼子が、ぴょんと立ち上がって跳ねた。


「聞いて!? シトリーお兄さんの一大事、聞いて!?」

「接待はしない主義なので」

「メアちゃん、クールだね!? やだやだっ! ちやほやされないのやだ!!」

「自己顕示欲すごいですね。ちやほやって、おいくつですか?」

「人が認知したときから数えた方がいい?」

「かなりの年寄りですね」

「まだぴちぴちの現役だもん!」

「めーあー、ほっとけーきぃ」

「はいっ、ハル様! ただいまご用意いたします!!」

「声が2オクターブはちがう……」


 メアの服を掴んだハルの催促に、それまでの半眼が嘘のようにメアが微笑む。きゃるんとしたそれには、星が散らばっていた。

 めそめそ落ち込むシトリーを置いて、ハルを引っ付けたメアが台所へ向かう。ヒールの踵はご機嫌だった。


「悪魔なんて、自己顕示欲の塊だもん!! やーだー! 置いてかないでー!!」

「駄々を捏ねないでください。見苦しい」

「メアちゃん、俺のこと嫌いすぎない!?」

「ハル様のおめめに映るものは、私だけで充分ですので」

「曇りなき眼で、心の曇ったこといわないで……」


 メアの温度の低い声音と発言に、涙を浮かべたシトリーが震える。メアの服から手を離したハルが、シトリーの手を取った。

 くいと引かれる仕草に、背の高い彼が屈む。彼の黒髪を、小さな手が撫でた。


「シトリー、泣いちゃだめ。俺も転んでも、泣かないようにしてるんだぞ!」

「ううっ、ハル様のお優しさが心にしみる……」


 おませに胸を張る幼子の姿に、涙を滲ませたシトリーがその身体を抱き締めた。眼鏡を外して瞼を拭った青年が、メアによってぼろぼろにされた心を癒す。彼がハルの背をぽんぽん叩いた。


「ハル様、お偉いです。かっこいいですよ!」

「ほ、本当か!? 俺、かっこいいか!?」

「はい、とても! ははっ、……メアちゃん。包丁逆手に持つの、やめない?」


 褒められたことに頬を真っ赤にさせたハルを微笑ましく見下ろし、ゆらりと揺れた影にシトリーが笑顔を引き攣らせる。

 命綱であるハルを抱き上げ、早急に彼はメアから距離を取った。

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