飛んでくる(物理)

「避難訓練をしよう」

「は?」


 報告書を纏め上げたシトリー殿が、卓上で用紙をとんとん整える。こちらを向いた眼鏡越しの金目が、冗談の混じらない色で瞬いた。


「ハル様は人間に対して、警戒心がなさすぎる。メアちゃんが傍についているとはいえ、いつ何が起こるかわからない。ハル様の御身をお守りするためにも、自衛の心を身につけてもらわないとな」

「しかし、ハル様の大きさは五歳児程度です。そのような幼子に、何が出来るのでしょう……?」

「大声を上げる?」

「基礎中の基礎ですね。心得ました」


 茶封筒に仕舞われた用紙が封され、弾いた指先に合わせてそれらが忽然と姿を消す。シトリー殿が笑みを浮かべた。


「ついでに、疑心を育めば純真さは削がれる。ハル様はまだ幼い。長期戦にはなるが、時間は存分にあるんだ。子どもの時期はいつかは終わる。それまで待てばいいさ」


 明るい笑顔で残酷なことを告げるシトリー殿は、やはり年の功か堂々としていた。

 なるほど、彼の言う通りだ。いつかは消えてなくなる無垢さはやはり貴いのだと、ハル様貴いを心の中で賛歌した。






「ではハル様。暴漢に襲われたらどうしますか?」

「えっと、『たすけてー!!』」

「はい! 正解です!」


 翌日、ど田舎の野原にハル様をお連れし、『避難訓練』を実施する。思案気に口許に手を添えたシトリー殿が、困ったように微笑んだ。


「いやあ、想像以上に現場が閑静過ぎて、……これ、ハル様の声聞こえると思う?」

「……盲点でした」


 広大な野山が長閑に広がる光景は、民家が少ないことを代弁している。ぴーひょろろ、頭上を旋廻する鳥の鳴き声まで鮮明だ。緑と青空が眩しい。

 背の高い草木に埋もれてしまうハル様は、頼りないほどに小さい。万が一事が起こり、ハル様がどれだけ叫ぼうと、そのか弱い声量が何処まで届くのだろうか? 思わずぞっとしてしまった。


「作戦変更っすなあ……」

「さくせんへんこー?」

「じゃじゃん! 信号弾!」


 軽やかに片目を閉じたシトリー殿が、くるりと手のひらを返して拳銃型の何かを手に持つ。手品のように一瞬で現れたものに、ハル様が大きな瞳を輝かせた。


「シトリー、それなあに!? どこからきたんだ!?」

「魔界市場」

「いつの間に通販したんですか」

「便利な世の中になったよねー」


 細い眼鏡フレームを押し上げ、シトリー殿がニヒルに笑う。

 魔界市場はあれだ。通販市場トップシェアを誇るあれだ。私もこのど田舎に住まうに当たって、相当活用させてもらっているあれだ。

 ハル様の前で膝をついたシトリー殿が、拳銃型のそれを丁寧な仕草で掲げた。


「いいですか、ハル様。もしも危ない思いをしたら、お空に向けて、こーやってここを押してください」


 小さなおててにグリップを握らせ、ハル様の後ろからシトリー殿が手を添える。無骨な信号弾はハル様の無邪気さと相反するもので、真ん丸な金目はまじまじとそれを見下ろしていた。


「ここを引くと、ここから煙の弾が飛び出します。すっごく危なくて、大怪我しちゃうので、決ッッッしてここを覗き込んではいけませんよ?」

「わ、わかった!」

「じゃあ、試しに一回撃ってみましょうか」


 シトリー殿のマイルドな説明を受け、ハル様が怯えたお顔で何度も頷かれる。

 その後も、「人に向けて撃っちゃだめですよ、痛いですからね」や「大きな音がしますからねー」など、気の抜けた講習が開かれた。


 ハル様の小さなおててに大きな手が添えられ、支えられる。頭上へ向けてうんと伸ばされた細い両腕が、ぷるぷると震えた。

 引き金が引かれ、たあん、大きな破裂音が上がる。反動で体勢を崩したハル様を、シトリー殿が抱き留めた。澄み切った青空には赤い煙が音もなく横断し、風に流されてその色を引き伸ばしていく。


「さすがです、ハル様! お見事!!」

「はわわっ、赤いもくもく……!」

「よーし、これなら気付けるかなー……ん?」


 手を叩いてハル様の勇姿を褒め称えていると、不意にシトリー殿が眉根を寄せた。瞬時に私も殺気を感じ取る。例えるならば、研ぎ澄まされた刃物のような、純然たる殺気だった。

 赤い煙の横切る蒼穹の、燦々と輝く太陽に黒点を見る。知覚と同時にシトリー殿がハル様を抱えてその場を飛び退り、私も双剣を呼び寄せその場を離れた。瞬間、耳を劈く轟音と衝撃が、大地を割って私たちを襲撃した。


「――ッ、何奴!?」


 粉塵を片腕で防ぐも、土煙が視界を不良にする。肌をビリビリと刺す緊張感と威圧感はこれまで遭遇したことのないもので、剣を握る手が知らず震えた。

 ――キンッ、金属の打ち合う音が鼓膜に届く。

 ハル様の御身が!! 咄嗟に駆け出した私の足許で、不穏な光が線を描いた。咄嗟に跳躍する。眩い光が視界を焼いた。


「くッ」


 直撃こそ免れたものの、受身を取った先はガタガタに割れた地面だ。痛い。

 砂利を踏む音が聴覚を刺激する。蹲って呻く私の頭上に、人の気配を感じた。即座に身を起こして飛び退る。


「あんれま、ハルちゃんばい!」

「ミスマリー!?」


 砂埃の中、浮かび上がる見知った顔。腰の曲がった老婆が、皺だらけの顔を驚いたように呆けさせる。

 彼女が後ろ手に組んでいた両腕を広げた。ざああ、音を立てて土煙が引いていく。視覚以上に、空気が冴えるのがわかった。


「じいさんや! ハルちゃんとメアちゃんばい!」

「んえぇ?」

「ハルちゃん!!」

「んあぁ、ハルちゃんね」


 驚いたことに、シトリー殿と対峙していたのはよぼよぼのご老人、ミスターヘンリーだった。いつも携えている杖で、シトリー殿の剣と切り結んでいる。

 ど、どういうことだ!? シトリー殿は細身の剣を扱っている。しかしだからといって、地獄の君主と杖一本で渡り合えるはずがないだろう! このご老人は、一体何者なんだ!?


「ごめんねぇ、ハルちゃん。じいさん、煙ば見えたかいいよってね」

「ミスマリー、私はメアだ」

「ああっ、ごめんねぇ、メアちゃん」


 申し訳なさそうに微笑む老婆が、深い皺の刻まれた手で、ぺんぺん私についた土を落としている。……あれだ。転んだ子どもの服を払う仕草と、全く同じだ。

 唖然とする私たちを置いて、杖を引いたミスターヘンリーが、いつものように杖をついた。ぷるぷる震えている姿は、いつもと変わらないご老体のままだ。


「おんし、ここば見らん顔たい」

「……へ?」


 背の低いご老人に見上げられ、背の高いシトリー殿が狼狽える。右腕にハル様を抱える彼は、困惑のままにこちらへ目配せしてきた。

 ……恐らく、訛りが解読出来なかったのだろう。正直、私も曖昧にしかわかっていない。

 ハル様がシトリー殿の首に腕を回された。ぎゅうとしがみつくそれは、とても羨ましい。


「じいちゃん! シトリーのこと、いじめちゃだめー!!」

「おおっ! すまんすまん! じいちゃん、煙ば驚いたばってん、飛んできたけん」

「あ、ええ、ああっ!」


 ご老人の言葉を解読したらしい。ハル様をあやしながら、シトリー殿が得心の顔をする。彼が僅かに頭を下げた。


「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。ご近所の方でしたか」

「んえぇ?」

「じいちゃんとばあちゃんな、お隣さんなんだ!」

「あぁ……なるほどぉ……噂のお隣さんでしたかぁ……」


 完全に笑顔を引き攣らせたシトリー殿が、ハル様を抱え直す。彼が好青年の表情を取り繕った。

 ミスターヘンリーに代わり、ミスマリーがこくこくと話を聞く。


「ご挨拶が遅れました。俺はシトリーといいます。ハル様とメアちゃんのお兄ちゃんです」

「あー、お兄ちゃんやったとね。そいは悪かことしたばい!」

「今日はハル様と避難訓練をしていまして。よろしければ、ハル様に向いた助けを求める方法を教えてくれませんか?」

「そいやったとね! あーっ、ばあちゃんもじいちゃんも、早とちりばい。ごめんねぇ!」


 じじばばと握手するシトリー殿が、「構いません。ハル様を心配してくださって、ありがとうございます」着実に好青年ポイントをためていく。

 騙されてはいけない。シトリー殿は名のある悪魔だ。その本心は、欲情を意のままに操る狡猾で崇高な存在だ。


 にこにこ微笑むシトリー殿が、ハル様を交えてじじばばと交流する。背中をばしばし叩かれた彼の手には、防犯ブザーが握らされていた。


「防犯ば使わんね!」

「なるほどぉ、こんなのもあるんですねー」

「ここば引っ張るけん。ごつか音がすっとばい」

「ここー?」

「こいば鳴らして、遠く投げっと」

「はーっ。か弱きものの知恵っすなあ」


 防犯ブザー講習を受けるふたりが、白いたまご型のそれをしげしげと眺めている。粗方説明を受け、シトリー殿が爽やかな顔で笑みを浮かべた。


「ありがとうございました! 助かりました~!」

「よかよか。困っとったら、また言わんね。じゃあね。ハルちゃん、ばいばい」

「ばいばい、じいちゃんばあちゃん!」


 無邪気に手を振るハル様に見送られ、ミスターヘンリーとミスマリーが手を振り返す。よぼよぼと、いつもの歩調で帰路につく背中を見送った。

 にこにこ、穏やかな調子で手をひらひらさせていたシトリー殿が、そっと手を下ろす。彼がハル様を抱え直した。彼の笑顔は引き攣っている。


「メアちゃん、どういうこと!?」

「私にもわかりません!!」

「この地域、空からおじいちゃんが降ってくるの!?」

「そんなわけないでしょう!?」

「でも降ってきたよ!? 今日の天気は、晴れ時々じじいなの!?」

「嫌ですよ、そんな天気!!」


 ハル様をぎゅうぎゅう抱き締め、シトリー殿が「やだやだこわいこわい!」駄々を口にする。

 おい。いい加減ハル様を離さないか。偉いからといって、何でもまかり通ると思うなよ。


「あのおばあちゃん、いつからいたの!? 何で地面こんなにバキバキなの!? あのご老体はフェイク!? やだもう、情報量が多過ぎる!!」

「じいちゃんとばあちゃんな、すっごく優しいんだぞ?」

「ハル様に優しい世界で、シトリーお兄さんすっごく嬉しいです!」

「シトリー殿、それ以上はセクハラです。ハル様をお離しください」

「何で!? 頬っぺたくっつけただけだよ!?」


 ハル様の柔らかな頬に、ぷにっと自身の頬を引っ付ける。何て羨ましい! 滅びればいい!! その眼鏡爆発しろ!!

 私の覇気を感じ取ったシトリー殿が、目尻に涙を浮かべた。


「ええんっ、メアちゃんがこわい! 枕元にミルク置いて寝る!」

「やめてください! 下ネタですよ!!」

「これ、メアちゃんの中でもそんな認識なんだ!? 人の子が編み出したナイトメア対策なのに!」

「けほん! しかるべきところへ訴えますよ!?」

「やめてー!!」


 悪夢とは夢魔だ。一時期枕元にミルクを置いて眠る文化が流行し、私は大変困惑した。ああ、みなまで言わせるな。


 なおもシトリー殿に抱えられるハル様は不思議そうなお顔で、「俺はおさとう入りのミルクのがすきだ」愛らしいことを仰られた。

 心得ております、ハル様! 帰っておやつの時間にしましょうね!

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