シトリーお兄さんだよー!

 ハル様の留学生活がひと月を迎えた。今日は日頃のお勉強の成果を査定する日だ。

 正直、不安しかない。


「シトリー!!」

「ハル様、おひさです! ははっ、ちょっと見ない間に大きくなりましたねー!」


 黒髪の青年が小さなお身体を軽々と抱き上げる。ご機嫌な笑顔で、ハル様が彼の首に腕を回された。

 彼こそが審査担当のシトリー殿であり、高位の悪魔だ。今は黒髪に金目の美青年の姿を取っているが、どのような姿にもなれるらしい。


「どうですか、ハル様。お勉強の方は順調ですか?」

「んー……」

「はははっ、素直なお返事ですねー」


 お勉強の言葉を聞いた途端、唇を尖らせたハル様が、シトリー殿の肩口にお顔を擦りつけられる。

 あの仕草はぐずられる仕草だ。私は詳しい。お嫌なことや、眠たいときに発揮される駄々のひとつだ。私はよく、腹に施される。


「シトリー、勉強しないと、だめか?」

「おとうさまのように、ご立派になられるためですよ」

「ううっ……」


 ハル様がしょんぼりと俯かれた。ハル様は心からお勉強が苦手でいらっしゃる。未だ進むべきカリキュラムの初歩の初歩で躓いているし、……恐らく、私の手腕不足が問われる。ううっ。


 テーブルにつかれたハル様の前に、教材を並べる。床まで届かない足をぷらぷら揺すられるハル様は、不服そうなお顔をされていた。

 今日の教鞭は私ではなく、審査員のシトリー殿が執られる。後ろに控えた私を、ハル様が不安そうなお顔で見られた。

 教本を手にしたシトリー殿が、細いフレームの眼鏡を押し上げる。にっこりと人好きの笑みが浮かべられた。


「ではハル様。今日はメアちゃんに代わって、シトリーお兄さんと授業しますよ。よろしくお願いしますね?」

「……うん」

「じゃあ、第一問! 人間のわるぅいところは七つあります。どんなところでしょう?」


 シトリー殿がハル様の前に屈み、目線の高さを合わせる。俯きがちなハル様が、困惑のお声を上げながらもじもじと下を向いた。シトリー殿が、人差し指をぴんと立てる。彼が自身の腹を擦った。


「あー、ぺこぺこだなあ」

「っ! おなかすいた!」

「ぴんぽん! じゃあ、次は……ぷんぷん!」

「え? ええと、……おこってる?」

「正解です! 次はですねー、……だるだるぅ」

「ええ? わ、わかんない……」

「ははっ、後回しですね~。じゃあ、次はー」


 顔の良い高身長の男が、『ぷんぷん』などと口にする怪奇現象に戦慄する。ハル様へ伝えるためのマイルドなジェスチャーつきなのだから、余計に恐怖を掻き立てる何かがそこにはあった。

 先に断っておくが、彼は私などよりもうんと高位の存在だ。上から数えた方が早い。そんな崇高な存在が、両手でハート型を作って『めろめろ』というんだ。……おっと熱が出てきたようだ。


「さっすがハル様! 四つも答えられましたよ~!」

「……えへへっ」


 私の思考が旅行へ行っている間に、第一問が終わったらしい。シトリー殿が白い御髪をわしわしと撫でていた。はにかんだハル様が最高に愛らしい。

 立ち上がった審査員が教本を捲る。……そこから先は、前人未到の頁だ。シトリー殿が問題を読み上げた。


「じゃあ、第二問! 俺たち悪魔の名前をお答えください」

「……うん?」


 こてん、ハル様が首を横に倒される。にこにこ、シトリー殿が笑顔を保つ中、秒針の跳ねる音だけが無情にも響いた。

 ああああッ。申し訳ございません、シトリー殿! 履修しておりません! ある意味ハル様にとってのサービス問題ですが、ハル様はその問題をご存知ではありません!!


 静かに笑顔を引き攣らせたシトリー殿が、人差し指をご自身へ向けられる。ぱちん! ウインクが星を飛ばした。反対側へ首を倒したハル様が、不思議そうにお口を開かれる。


「シトリー?」

「正解です、ハル様! いやあ、栄えある一番目、ありがとうございます!!」


 大袈裟なほど腕を広げた好青年が、ハル様の頭をぎゅうぎゅう抱き締める。褒められたことを喜んだハル様が、無邪気にはしゃいだお声を上げられた。

 うぐぐっ、私の臓器など仮初のものなのに、何故だろうか心臓が痛い! こっちを見ないでください、シトリー殿!


「よぉし、休憩タイムです! メアちゃんとお茶の準備してきますんで、ハル様はここでお待ちくださいね」

「うん!」

「よーしメアちゃん! れっつごーきっちん!」


 鮮やかに片目を閉じたシトリー殿に引っ張られ、お部屋の扉をしっかりと閉める。内臓をぎしりと痛めた私まで振り返り、顔色を悪くさせた彼が笑顔を引き攣らせた。


「メアちゃん、どういうこと?」

「申し訳ございません、シトリー殿!!」

「いいや、お茶作りながら話そっか。……え? ハル様お勉強嫌いすぎない?」

「わ、私の不始末です……!」


 台所で湯を沸かしながら、私は懺悔した。ハル様がお勉強を苦手としていること。そして何より、人間などと仲良くしていることを。

 額に手を当てたシトリー殿が、深く息をつく。こちらを向いた彼は、困り果てた顔をしていた。


「上に何て説明しよっか、これ……」

「大変申し訳ございません!!」

「いやー……このままだと、ハルマゲドン災厄のハル様じゃなくて、ハルモニア調和のハル様になっちゃうなー」


 誰が言葉遊びしろと。

 ぎしぎしする胃を擦る私を置いて、天井を見上げたシトリー殿が、思案気に顎に手を添える。ぴんと指を立てた彼が、こちらを向いた。にっこり、人好きの笑みを見せられる。


「絵本の読み聞かせ、しよっか!」






「――そう男が叫んだ瞬間に、蜘蛛の糸は切れ、男は地獄へ落ちてしまいましたとさ」


 ぱたり、裏表紙が閉じられ、蓮の花のイラストが視覚を締め括る。シトリー殿の膝に乗せられたハル様は不満気なお顔で、じっとその裏表紙を見詰めていらっしゃった。


 シトリー殿の作戦はこうだ。

 ハル様は人間に対して好意的だ。なので、人間への悪感情を抱かせるために、人間の汚い部分を描いた絵本を読み聞かせようという次第だ。

 真っ先に選ばれた本がまた重厚だ。ハル様も、これできっと人間が嫌いになるはずだ! そわそわ、ハル様のご様子を窺う。


「……シトリー」

「はい、ハル様」


 沈み切った幼いお声に、好感触を得る。

 シトリー殿が優しく囁いた。さすがは名のある悪魔。職能は欲情。堕落させるための色気といえど、相手はハル様だからな? 許さんぞ?

 とはいえ私もナイトメアであるため、役職としては大して変わらない。……人選ミスを痛感する。

 ハル様がシトリー殿へお顔を向けた。大きな金色の目が潤んでいらっしゃる。


「地獄とは、そんなにいやな場所なのか……?」

「……はい?」

「ちちうえは、みんなを、そんないやな場所ではたらかせているのか……?」


 おおっとー、斜め上の質問だああああ!!

 うるうると決壊しそうな涙に、硬直していたシトリー殿が我に返る。彼がハル様を抱きかかえて立ち上がった。高身長による高い高いだ。


「そんなまさかですよ~! 週休二日制! 九時五時勤務! アフターファイブを尊重する、残業なしの環境! 最高の職場です!!」

「う、うん?」

「シトリー殿、ハル様にその呪文は解読出来ません」

「朝の九時からお仕事して、夕方の五時から遊びます!」

「シトリー、おしごとえらいな!」

「あざっす!!」


 小さな手のひらが、シトリー殿の黒髪を撫でる。

 こんなはずじゃなかった! 地獄の君主の顔はそう物語っていた。


「空調完備なんで、本に出てきたような悪環境なんてありません! 年休もボーナスもあります! 本当良くしていただいてますよ、はっはっは!」

「ちちうえは、いいちちうえか……?」

「勿論です!!」


 冷や汗を掻くシトリー殿に合わせて、こくこく私も頷く。必死に頷く。何処で聞かれているかわからない。今私たちは、職を失う危険に晒されている……!

 汚い大人の仕草に首を傾げながらも、純粋なハル様がふわりと微笑んだ。花が咲いたような笑顔だった。貴い。

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