かつて、魔女が愛したこの世界で――
Zion
かつて、神が愛したこの世界で――
もはや地上より神々も去り、人が地上を回していく事になれ、やがて神々がお伽噺となった頃…。けれど脈々と受け継がれた、一つの物語があった。
とある壮麗な山の山頂には、幾年たっても変わらぬ美しい容姿の魔女が、一人、住まっているという。彼女は神話の御代よりそこに住まい、静かに、人の営みを見続けているのだと。そして彼女を頼れば、直らぬと医者が匙を投げた難病さえ、瞬く間に治ってしまうのだと…そう、伝えられている。
*
――ピーチチチチ… チッチッチッ…ピー
「よぉ、徹夜か、カレン」
低く、苦笑を滲ませながらも快活な声が、家主の耳朶を擽る。家主は形の良いふっくらとした唇を苦笑に歪め、柔らかな銀糸を揺らして、振り返ることなく返答を返した。
「えぇ、お久しぶりね、ゼラ。それから、せめて玄関から入って頂戴な?」
「…で、元気なのか?」
さらりとカレンの発言を受け流して、懐かしげに、少し悲しげに、青年――ゼラの口の端が片方擡げられた。一瞬きょとんとした家主――カレンは、こくりと笑顔で首肯する。
「ごめんなさいね、ゼラ。毎回毎回、手間でしょう?」
申し訳なさそうに下がった眉は、けれど返事を待たずして上げられ、同時に、視線はまた、手元のすり鉢へ下る。
「いいや、現世に降りられるのは、俺の特権だ。上が何と言おうがかまう必要はねえしな」
からりと一笑、後、悪戯に――
「んで? なぁにしてんだ、カ・レ・ン・デュラ?」
「回復薬と、呪いの色々よ。人の体は、脆いものだから」
肩口からのぞき込まれて漸くと、カレンデュラはゼラの顔を見た。
そこらの女衆よりも白く、美しい陶器肌。曲がる事無く通った細い鼻梁。
眉筋は少し短く、薄く、細い。
そして…彼の顔の中で一際目を引くのは至上の藤色。
多くが感嘆の息を吐き、この世のものではないと論ずるような上等な紫水晶は、
数年前に見た面立ちと寸分違わない。
「……相変わらず、綺麗ね」
まじまじと見つめて、思わずそう呟くと、ゼラは大きく噴き出した。
「ぷは…っ! 俺に、そんな褒め方、するのは、お前くらい、だぞ?」
プルプルと小さく振動を繰り返す仕草は、どうやらツボに入ったらしいなと他人事のようにそう思う。
何度か、苦しそうに深呼吸を繰り返したゼラはふと顔を上げ、そして綻ぶように笑みを咲かせた。
「やぁっと顔、見せてくれたなぁ? カレン」
「あら、見せる必要、あって?」
ころりとすっ呆けて見せると、ゼラの眉が寄り、次いで顔が寄せられる。
「久しぶりに会って知己の顔を見たいと思うのは、俺だけ、か…」
そうかそうかと、低温で囁かれて、たまらずに飛び退く。
「…えぇえぇ、私も見たかったですよ?」
「……なら、良し。で、結局何してんだ?」
訝しげに擡げられた片眉とは裏腹に、瞳は好奇心の色を帯びている。
――あぁ、本当に素直だ事……。
ぽつりと独り言ち、手元へ今一度視線を向けた。
「この木の実は、潰して、水分を飛ばし粉末状にすると、簡易回復薬に近しいものになるのよ。人がやるには、それ相応の技術が必要だけれど」
「ん、なら手伝うぜ。俺は、いや、俺達は人じゃあねえからな」
「……そう、ね」
ふいに落ちた声色を誤魔化すように「さぁ!だったら、これから潰してくれるかしら?」と声を張り上げて。
突き刺さった視線に、気付かないふりをして。
*
その次の年、また次の年と、この間開いた分の年を埋めるように、ゼラは花恋の元へやってきた。
ふと疑問に思って問いかけても、「気紛れだよ、きーまーぐーれっ」と、誤魔化されてしまうだけ。もう面倒臭いと、カレンは口を開いた。
「ねぇ、もういいわ」
「…何が?」
低い声が、微弱に戦慄く。
彼だって、気付いているのだ。私が、言わんとする事を。知っているのに、知らないふりをする事の何と――
滑稽な事だろう…?
「もう……出て行って」
「……カレン?」
「そんなに毎年毎年来られても…息が詰まるのっ」
「……っ! けどっ」
ドン、ヴィンテージの机を叩く、鈍い音。
それが、今の揺れる気持ちを示すようで、カレンは耐えられなかった。
「来るなとは言ってないわ! ……今は一人に、して……」
お願い、お願いだから…。
崩れ落ちて、そしてカレンは遠退く小さな足音に自嘲する。最後まで、気遣うような視線が、今は惨めだった。
あぁほら――だから嫌なのに…。
人とかかわりを持って、依存して、消えゆく――。一人残されるのは、嫌だから――。
冴え冴えと響く雨の音――それは、喉の奥に張り付いた、慟哭のようだった。
*
ゴンゴン、ゴン…
「…いるか?」
久しい、声。カレンは、ベットでひっそり苦笑して、そして衣服の裾を整えた。
「…えぇ、どうぞ入って」
入って――だなんて勝手だな。そんな思考が過ぎって、また苦笑する。一方的な喧嘩別れは六年前。今でも忘れられない思い出だ。
「元気、か?」
「…さぁ、どうでしょうね。この間は、ごめんなさい。外、寒かったでしょう。入って」
「あぁ」
淡々とした、白々しいやり取り。いや、そうさせているのは自分自身か――。先程から絶えない苦笑を、カレンはショールを懐き寄せて隠す。
はぁ…と入り込んだ冷たい空気が、二人の間に揺蕩って、儚く、消えた。
「あったかい、な。こりゃ魔導具、か?」
「いいえ、ストーブよ」
「すとーぶ」
オウム返しの返答が、何だか拙い。笑ったカレンにゼラはむくれて、そして二人揃って噴き出す。
「ふっ…はは…あははっ…!」
「ふふ…ふふふふふっ…ごめ、ごめんなさっ…ふふふっ」
コロコロ、コロコロ、ひとしきり笑い転げて、二人は向き合う。
「それで、ね、上の皆さんは、元気?」
「…あぁ、俺には面倒な事や雅やかな儀礼はよう分からんが、まぁ、賑やかに姦しくやってるな」
「そう…らしいわね」
くすくすと笑いを漏らす。目を瞑れば浮かぶ、かつての地上。きっと賑やかしい事だろう。カレンにとっても、懐かしい思い出で、彼等にとっても、そうであって、今だ。
「「あの…/あのな」」
こくりと唾を飲み込んで、意気込んで出した言葉は、重なった。
「先に行ってくれ。俺はそんなに急ぎじゃあない」
「そう…」
顎をしゃくってそう言われ、ぽつりと呟いた返しは、どこか自分に言い聞かせるようになってしまった。
「ゼラ、上に伝えて欲しい事があるの。私は、これから長くないこの
瞳が、揺れる。大きく、瞳孔の輪郭が見える程に開かれた瞳に、穏やかで、悲しい笑みのカレンが移った。それが、彼の答えに相違なかった。
百年、経った百年――。
神にとっての百年は、人にとっての十年よりもずっと短い。死を知らぬ、消滅を知らぬ神々。ただ一人、禁忌を犯した己以外は。
「もういいのよ、私は、きちんと果てるわ。
また、次に生まれる『運命』を、宜しくね。私のように、狂って……しまわないように」
人としてのあり方を覚え、神としてのあり方を失い、過去を黒く塗りつぶされ、未来さえ、見る事は許されない。それが私の、元よりの運命だった。
「何を…っ、言ってるんだ……、カレンデュラっ」
慟哭するような叫びは、キィーンと耳を突く。
何を言っているのだろうというのは、こちらのセリフだと、カレンは微笑む。
「貴方は、私が死んだかどうかを確認しにきていた。そうでしょう? 違って?」
貴方が元気と尋ねるのは、まだ、私に市が迫っていないかを知る為。
貴方が六年前までの五年間、毎年毎年来ていたのは、その日、私が酷く咳き込んでいたから。
全て全て、上の指図に相違ない。仲が良かった彼が来たのは、最後ぐらいは、穏やかにという残酷な優しさから。
(あぁでも……)
――神様なんてものは、総じてとても残酷で……
「貴方は、どこまでも慈悲深い、から……」
くしゃりと、歪んだ顔は酷く悲しげだった。顔の片側を掌で覆って、目を眇めて、唇を引き締めて、乱れた髪よりなにより、涙を堪える姿に、心が痛くなる。あのころと変わらない表情、容姿。変わってしまった周囲と、世界。
けれど――
「私達だけ、取り残されてしまったの。でももう終わり。私はね、今度は真っ白になるのよ。黒塗りの記憶、ほんの少しの空白と、ぷっつりと闇に覆われた未来」
コロコロ、コロコロ、少女のなりをした魔女は、かつてこの世界を愛した神は、取り残された己を、楽しそうに嗤う。
一層華やかに、清々しく、悲しげに、愁いと、悲哀と、愛憎でもって、哂う――。
「でも、やり直してしまえは記憶も未来もすべて真っ白。あははっ、うふふふふっ……ねぇ、そうでしょう? ゼラ――「やめろ」」
一言が、重圧でもってカレンを襲う。ピタリと、心を保つための笑いが途切れた。
「止めてくれっ……もう、止めて、くれ…っ」
酷く戦慄く唇も、気弱な言動も、らしからぬのに、けれど、懐かしい。
――ぽつり
空白の、白が剥がれた。
黒が、浮いていく。
――剥がれて、剥がれて、見えた記録に、カレンは、嗤った。
クスクス、クスクス、声よりも音、音より響き――。
抜けるような空気の音が、涙を掃う。
「そうね、もう、止めましょう」
「は…」
唖然とした、空気が抜けるような音。整った面立ちの、間抜けな顔から、涙一筋――…。絶対に、引かないと、そう思っていた顔だった。
――我は幻霊、遍く生の始まりにして、受肉を拒みし禁忌の神――
「何、を…」
――我が魂は世界が基盤、神が捧げし、始まりの贄――
「……?」
――
「……そんな、馬鹿な…」
顔色が変わった。力の入らない体を支えて、カレンは祝詞を口にする。ゼラの瞳は、絶望一色。
あぁ、可哀想に遍く天上の神々よ。
御恨み申し上げます…。
――我が記憶を封じたるは、天が神、我が記憶戻りしその時は――
「カレンデュラっ‼」
――天井にありし者の命によって、須らく贖え!!――
雷光が、地より生えた。紫電が揺らめき、天上にて天変地異が起こる。
「けほっ…ふぅ…ぐ…けほっけほっ」
「カレンデュラっ…!どうして、あんな一人で…」
その瞳に宿る色は、もはやゼラにあらず。かつての、また別の、彼だった――。
酷く激しく咳き込んで、口の端から垂れた吐血の後。もう、長くはないなと、カレンデュラは血だらけの手を見る。
「貴方さえ…貴方さえ…生きていてくれれば、私は、それでよかった…」
私が禁忌を犯す事も、地に封じられる事も、全ては策略にして計略。滑稽なダンスだ、哀れな生贄よ、そう嘲笑っていたものに、一矢報いれたのは僥倖であったと、カレンデュラは笑う。美しく、美しく、ぞっとするほどに、退廃的に。
やがて、一人の慟哭が、山中に響いた。
――かつて、魔女が愛したこの世界で
神の救いは、もう無い。
かつて、魔女が愛したこの世界で―― Zion @775mama
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