第37話 本当のちとせ
電話越しに出たのは、透き通ったような声の女性だった。
『ちとせちゃん、どうした?』
「本田さん~気持ち悪い…吐きそう」
電話越しに、そう訴えかけるちとせ。
『この間もらったお薬は持ってる?』
「気持ち悪い」
『ちとせちゃん、聞いて?この間もらったお薬は持ってる』
「うん…」
『飲んだ?』
「飲んでない」
『うん、それじゃあね、そのお薬をまずは飲もうか!そうしたら落ち着けるから』
「嫌だ、お薬嫌い」
『うん、でも飲まないと落ち着くことできないよ?』
「本田さん迎えに来て?」
『それはできない』
「なんで!?」
『うん、だってね、ちとせちゃんはちゃんと契約書かいたでしょ?だから、私が駆けつけることは出来ないの』
契約書??何のことだ??
僕の分からない話が出てきて、頭が混乱する。
「気持ち悪い…」
『吐きそうなの?それなら、吐いちゃった方が楽だよ?』
「嫌だ!!」
『それなら、お薬飲んで落ち着くまで待たないと』
「気持ち悪いよ~本田さん来て~」
『それは出来ない』
さっきから、それの繰り返し。話が進展する気配がない。
『一緒に旅行してる人はそこにいるのかな?』
すると、本田さんがそうちとせに問いかけた。
ん?僕と旅行に行くことを知っている?この人はどういう立ち位置の人なんだ??
「いるけど…」
『うん、それじゃあその人に病院連れて言ってもらうなりしたら?』
「気持ち悪い…」
ちとせはうんとも嫌ともいわず、本田さんの提案を無視する。
そんな会話を何度か繰り返して20分ほどが経過しただろうか…
僕はついに痺れを切らせて、言葉を発した。
「もしもし?」
『あ、はい。もしもし』
「わたくし、ちとせさんと今回旅行しております
『あ、は~い。初めまして、訪問看護師の本田です』
「訪問看護師??」
『あ、ちとせさんから聞いてないんですか?私、ちとせさんの精神状態や健康状態を定期的に訪問してチェックさせていただいております』
「あ、そうだったんですね。」
『今、ちとせさんはどういう状況ですか?』
客観的に見ていた方が、どういう状況であるか的確に言葉で表すことが出来るだろう。
僕は、看護の本田さんにちとせが今どういう状況であるのかを的確に説明した。
『なるほど・・・もし、ちとせちゃんが本当につらいというのであれば、病院にいってもいいとは思いますよ?』
「わかりました」
『それでは、よろしくお願いします』
「え!?待って本田さん!!!」
電話を切ろうとしたちとせは、すがるように叫んだ。
『ん?どうしたのちとせちゃん?』
「切らないで!ずっと朝まで電話繋げて!」
『・・・それは出来ないよちとせちゃん。』
「なんで!?」
『私はちとせちゃんの専属看護師ではないの。他に患者さんは沢山いるし、ちとせちゃんにつきっきりってことは出来ないの。それに、今は隣に根倉さんがいるんでしょ』
「根倉じゃだめ!ちとせのことわかってる人がいないと!」
『・・・そういうわけにはいなかいの』
「ヤダ、切らないでヤダヤダヤダ!!!」
ちとせは、完全に親に駄々をこねる子供のそれと同じだった。
まるで、母親にすがるような気持ちで・・・
恐らく、ちとせの言う『わかっている人』というのは、ちとせの今の症状がわかる専門的な知識を持っている人ということだろう。
しかし、誰も助けに来ることが出来ない状態では、先ほど本田さんに教えてもらった過呼吸のおさめ方を自力でやるしかない。
「ごめんなさい、本田さん。もう少しだけ、電話をそのままにしてあげてください。本田さんと電話をつなげているだけでも、ちとせにとっては精神的に安心するようなので、せめて過呼吸状態が収まるまでは・・・どうか、お願いします」
僕が電話越しではあるが頭を下げると、本田さんのため息が聞こえてきた。
『わかりました。過呼吸が収まるまでは繋げておきます。』
「ありがとうございます」
◇
僕は今、レンタカーを近くの駐車場に止めて、ようやく一息ついたところだった。
あれから、大変だった。
過呼吸が大分収まったところで、ちとせを夜間病院に連れていき、病院で安定剤の点滴を打ってもらおうとしたのだが、なんと先生から告げられたのは残酷にも処置の必要なしという無情な宣告。
薬だけ処方され、ベッドに寝かせてもらうことすらさせてもらえなかった。
これによって、ちとせは再び過呼吸状態になり、『前来たときには点滴打ってくれたのに!!』と待合室で泣き叫んだ。
そして、ついに気持ち悪さが頂点に達して嘔吐した。
何度も嘔吐を病院のロビーで繰り返した上に、病院側は何も対応してくれない。
この病院どうにかしてるんじゃねーかとも思ったが、ちとせがようやく落ち着いたところで、タクシーに乗ってホテルへと一度戻り、当初遊園地へ行く予定だったため、事前に予約していたレンタカーを借りてちとせを乗せてちとせの家に向かった。
ちとせを寝かせて、僕はすべての旅行の予定のホテルや飛行機などの予約を取り消して、訪問看護の人に挨拶をした。
その時、ちとせの今まで知られていなかった事実をすべて知った。
親からDVを受けて、施設で育ったこと。実はちとせは知的障害者で、今住んでいるここはグループホームであるということ。すべてを知った。
僕は新たに知ったことが多すぎて頭が全くついていなかなった。
なんだよそれ…意味わかんねぇよ。
そして、ちとせをカウンセリングの病院に連れていき、再び家に送り返して、今は駐車場に車を止めたところだった。
駐車場に止めた途端、フロントガラスには水滴が辺り、外では雨が降り始めた。
しばらくぐちゃぐちゃになっている頭を整理する時間が必要だった。
僕は一人車の中で、運転席にもたれかかり、ぼおっと外を眺めながら今までのことを思いだしていた。
思い返せば、色々とちとせの言動でおかしい行動もあったかもしれない。
さらに、これだけ通話で繋がっていたいと思う強い人への執着心。これは、親から暴力を受けた子に良くある症状であるとネットに書いてあった。
ようやくすべて納得が言った気がした。
あぶなかっしいけど、そこか放っておけない。でも、無茶をする。
まさにちとせという人間そのものだった。
◇
ちとせの玄関の鍵は開いており、ドアノブを引くと簡単に開いた。
家に入ると、ちとせはソファーに座りながらスマホでLANEのチェックをしていた。
昨日の深夜の状態からは大分落ち着きを取り戻し、今は普通に歩けるくらいまで回復していた。まあ、精神的な問題だから、落ち着いてしまえば放心状態の時が嘘のように元気になっているものである。
うつ病を経験したものには分かる。
僕が入ってくるのをチラっと見てそれ以上は何も言わなかった。
キャリーケースに入っていた荷物を部屋に戻して、自分の荷物をまとめた。
「それじゃあ、僕はホテルに行くけど大丈夫?」
「うん…」
「それじゃ、また」
僕のことを見ることはなく、少し名残惜しさを感じながらも、玄関の扉を閉めた。
これが、僕がちとせの姿を見た最後になった。
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