第4話  鏡の中の悪魔 前編

 新学期が始まってなお、残暑を帯びた日差しは厳しく照りつける。

 その日の坂奇学校は騒然としていた。発端は清掃員が『それ』を見つけたことにあったが、運悪く早朝に朝練をしていた合唱部が悲鳴を上げたのも原因の一つであったかもしれない。

 『それ』とは死体であった。

 屋上から身投げしたと思われる坂奇学校生徒の遺体だった。

 ブルーシートに覆われた現場は、学校内外様々な人が右往左往を繰り返し、ごった返している。そんな景色を、遠目に見る生徒が二人。

「ねえ、シキ。どう思う?」

「そう言う時のハヤネって結論もう出してるじゃん」

 紫の髪の男子学生が、頭の方に両手をやって唇を尖らせる。緑のくせっ毛をした男子学生が、悪戯でもするかのように笑いかける。

 そうして二人は、校内のある一点を睨み、息を吸う。

「あいつだ」

「あいつだ」

 二人の声は、ぴったりと揃っていた。




 坂奇学校には強大な力を持つ七不思議なる怪異たちが存在する。だが、跳梁跋扈しているのは、七不思議たちばかりではない。

 暮月 紫輝(くれつき しき)と朝日 疾音(あさひ はやね)が目を付けたのも、七不思議ではないが強大な力を持つ怪異――通称、「鏡の中の自分」である。

 中等部校舎の二階、その踊り場にある鏡。それが、この怪異の正体である。

「こいつ、前封印されたのって何年前だっけー?」

「二十年じゃなかった?」

「じゃあ、そろそろといえばそろそろなのかぁ」

 この怪異は奇妙なことに、二十年スパンで逃亡する。怪異対策委員会に所属する二人も、その情報は知っていた。二人して腕を組んで、鏡を睨みつけている。

「こいつで間違いはないよね……どうしようか。確か、取り憑かせないと捕まらないんだよねー? 俺がやろうか?」

 紫輝は間延びした声を上げながら、ちらと隣の疾音を見る。疾音はむすっとした顔で鏡をねめつけながら、首を横に振る。

「いや、今朝、あの場所に行く前に支倉から連絡があったんだよ」

「ああー、『協定怪異』の。どうしたって?」

 頭の向きはそのままに、鏡に向けられ続けていた疾音の視線が紫輝に向けられる。彼は頭を掻いて、難しい顔のまま口を開く。

「もう第二の犠牲者に取り憑いてるかもって……」

「……行動早くない?」

「だから被害が大きくなるんだよ、こいつ」

 二人は特に何か示し合わせたわけでもなく、情報提供者である支倉 眞守(はせくら まもり)のいる2-Dの教室へと歩き出した。

 二人は歩く間にも、言葉を交わすことを忘れない。

「ハヤネは次の小テストの勝算はどう?」

「えー……無理」

「ほんとに無理そうな声だなあ」

「僕は微分積分に到着する前に死ぬ……骨は拾っておいて……」

「二次関数のグラフに乗せとくねー……俺もすぐ行くから……」

 彼らは怪異対策委員会である前に、それぞれが一人の生徒である。当然、本業をおろそかにすることはできない。二人もそれは承知しているが、やはり非日常の怪異の話題よりも、声のテンションは控えめである。

「ノート、貸そうか」

「え、いいの?」

「助かる……ん?」

 二人してため息をついていたところに、ごく自然に言葉が投げかけられた。二人は最初こそ気付かなかったが、一緒になって、声のした方を振り返る。

 そこにいたのだ。怪我だらけの男子生徒の怪異が。

「うわぁっ!」

「わぁぁぁ!?」

 互いに密着して素っ頓狂な声を上げ、疾音と紫輝は廊下を飛び退る。声を掛けた男子学生は、陰気な気配を漂わせつつも、きょとんとして二人の様子を見つめている。

「あ! は、支倉!!」

 一足先に我に返った紫輝が背後にいた男子学生に指をさす。

「……どうも」

「脅かさないでよーっ」

 男子学生は黒髪に隠れた赤い瞳を向けて、二人を見つめている。

 二人に声を掛けたのは、紛れもなく怪異対策委員会と協定を結ぶ怪異、『倉ぼっこ』の支倉 眞守(はせくら まもり)であった。

 眞守は男子学生に身をやつして2年D組で暮らす、物静かな怪異である。元はといえば守り神であった彼が怪異となったいきさつを知る生徒はいない。しかし、彼は己の意義と静かな優しさ、そしてささやかな不器用さをもって、今でも人を守り続けている。

 そういうわけで、疾音と紫輝も時折、彼と言葉を交わすこともあるのだった。多くを語らず、協定という距離を保つ彼も、今のところは同学年の生徒であるからして。

「丁度良かった。支倉に話を聞きたかったんだよ」

「僕も。頼もうと思っていた」

 廊下を歩き出した疾音の言葉に眞守が頷いて、2-Dの教室へと案内を始める。

 途中で教室から飛び出した生徒にぶつかって文句を言われたり、偶然開いていた廊下のロッカーに脚をぶつけたりと、眞守が不幸な目に遭うのを見て、疾音と紫輝も顔を見合わせて心配する。

「……大丈夫。慣れてる」

 だが、淡々とした口調で、眞守は表情も変えずに言うだけだった。

「で、どの子?」

「……あの子」

 2-Dの教室に入ったところで、疾音が問いかける。すると、眞守は教室のある一点に指を向けた。

「うわ。かーわいー」

 紫輝がのんきな声を上げる。

 そこに座っていたのは小柄な女子生徒だった。長く茶色い髪をポニーテールに結わえて、大きな青い瞳で窓を見つめている。

 しかし、その足下に張り付いた影はじっとりと濃く、活発そうな雰囲気の彼女に文字通り暗い影を落としていた。

「彼女を……宇多川日向(うたがわ ひなた)を助けてほしい」

 言葉少なに眞守は疾音と紫輝にそう言った。かの鏡の怪異が相手とあって、当然断る理由のない二人だったが、それはそれとして年頃の興味にも支配されていた。

「え、知り合い?」

「……幼なじみ」

「じゃあ、僕たちと一緒だねー」

 恋人やら好きな人やらの話ではないことに残念がったものの、幼なじみと聞けば、紫輝の表情は緩んだ。

 そうして男子三名が雑談に花を咲かせているうちに、ふと、日向の視線が動いた。見られていることに気付いたのか、それとも単に賑やかだからおのずと目が向いたのか。彼女は眞守の姿を認識すると、立ち上がって何気なく歩み寄ってくる。

「こんにちは、眞守君。お友達?」

「……うん。まあ」

 眞守は幼なじみというのにはそっけない態度を取る。日向も、どことなく単なるクラスメイトという認識以上の気配を見せない。

「ふーん、誰かと一緒にいるなんて珍しい」

 彼女は気を使いながらも色めき立つ疾音と紫輝の方へ体を向ける。

「眞守君、よく怪我するから見ててあげてね」

 彼女が屈託のない笑顔を浮かべるのを見て、疾音と紫輝も笑顔になる。

「日向ちゃーん、今日の練習の話なんだけど」

「あっ、すぐ行く。じゃあね」

 部活動の仲間と思しき少女に呼びかけられ、日向は急いで廊下の窓の向こうを見る。彼女が小さく胸元で手を振って、廊下に出て行くのを、三人は見送った。

「……別に幼なじみって雰囲気じゃなくない?」

「うん。彼女は覚えてないから」

 しゃんとした背中のあった場所を見ながら、眞守は頷く。

「でも、それでいい。僕が覚えている」

 眞守の心なしか穏やかな声色に、二人はただ、何も言い出せずに黙っていた。

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