第3話 言子
ねっとりとした湿度の高い空気が常夜を多い、今日も怪異たちの楽園に重苦しい空気を広げている。
さて、怪異対策委員会の戦列は生徒のみならず、一部の教師も加わっている。数学教師の神立御幸(かんだて みゆき)と西郷家康(さいごう いえやす)もまた、件の委員会のメンバーである。
同性かつ同じ学科の教師ということもあり、よく話をする神立と西郷であったが、今回は仲良く不幸に見舞われることとなった。
「やれやれ。御幸の名に幸運を与える言霊は詰まっていないのかね」
「好きで怪異に追われてるわけじゃねーっ! クソがっ!」
がっしりとして脚が短く見える西郷に肩を並べて、ひょろっこい神立が廊下を走る。
今、まさに二人は怪異に追われていた。女の身体にいくつもの顔がついた、おぞましい怪異である。ひそひそと不穏な鳴き声を立てながら、それは背後から迫っている。
「ってか、こいつ! 俺を一週間追い回した奴じゃねえか!」
二人は息を切らしながら廊下を走り、曲がり角を駆け抜けて階段を上る。
神立はもどかしげに顔をゆがめて西郷を睨み、指を差す。
「あー、くそっ、くそっ! あんただって俺の手を掴まなきゃこんなことにはならなかったんだぞ! お人好しかよ、バカッ!」
「そう言われてもね……あああ、来た来た来た……!」
猛然と迫る怪異に西郷の血の気が引く。神立としても、日頃分析に回っている西郷が、実は怪異が『ダメ』ということは分かっていた。しかし、こうなってしまっては一蓮托生である。
「よくこんな怪異と一週間追いかけっこをしたものだ……!」
西郷が最後の階段を飛び越えるのを見てから、神立も次の廊下を走り始める。そして怪異が曲がる前に、二人ともが開いたままの教室に飛び込み、息を潜める。
怪異は浮遊しながらあたりを見回し、そのまま廊下を進んでいく。
「……よし」
なんとかやりすごしたと判断し、汗だくの男二人はぎっちり詰まっていたロッカーから雪崩れるように脱出した。
だが、二人して窓から顔を出してみれば、怪異はまだ近くをうろついている。ずるずると背中を壁に押しつけながら座り込んで、顔を見合わせる。
「さて、ここからどうするべきか」
「バカ野郎、そんなのお前……うーん」
さすがの神立の勢いも萎えて、いよいよ八方塞がりとなった丁度その時、誰もいない教室の中から声がした。
「手伝ってあげよっか?」
少女の囁く声がした方に、教師二人が視線を向ける。
「ばあ」
「うおおおぁぁっ!?」
そこにいたのは、両手をパーにして顔の横に据えた旧制服の女学生であった。まったく突然のことで、西郷が悲鳴を上げて壁を背中に押しつける。女学生は怯えた西郷を見て、面白そうにくすくすと笑う。
「こんばんは、御幸くん。他の怪異のテリトリーに入るのが難しくて、遅くなっちゃった」
手を背中の方に回して、少女は柔らかく笑う。だが、こんなところにただの人間がいるわけもないということを、二人はよく分かっていた。
つまり、この少女もまた、怪異である。
「……よう、言子(ことこ)。しばらくぶりだな」
肘でシリアスな顔をした西郷を小突きながら、神立が怪異に視線を向ける。言子はにっこりと笑って、小さく手を振る。
「また怪異に追いかけられてるんでしょ。私が引きつけてあげるから、あっちから逃げたらいいよ」
言子は怪異のうろつく方向とは逆の向きを指さして、二人を促す。神立がいつにも増して真剣な眼差しで言子を見据える。
「いいのか?」
「うん」
「……怪我すんなよ」
「大丈夫。いたいのいたいのは、飛んでいくものだから」
「そうか。……またな」
「うん、またね」
言子が手を差し伸べたのを見て、神立はその華奢な手を握って立ち上がる。そして、西郷を立ち上がらせて、言子とは違う方向へと歩き出す。もう一度、西郷が振り返った頃には、奇妙な怪異の少女はすっかり消え失せていた。
長いようで一瞬の出来事に、西郷は目を白黒させている。
「……彼女は?」
「まあ、話すと長くなるんだけどな」
生傷のついた頬を掻いて、神立は階段を降り、出口へと歩く。その横を、西郷が歩く。あたりはすっかり静まり返って、怪異の一人もいやしない。
「まず、あいつが自分が誰かも分からない状態でふらふらしてたのを、俺が見つけたのがきっかけだ。それ以来、俺がピンチになると大抵近くにいる。お人好しのバカだ」
「ふむ……言子という名前は、彼女の名かね?」
「いや。俺が付けた。名前も『なかったこと』になってたからな」
一呼吸置いて、神立は天井を見上げる。西郷は横を歩いて、ただ静かに聞いている。
「あいつは小さい怪我だとかちょっとした痛みだとか、そういう『あるものをなかったこと』にできる。その力で、自分を消そうとしたらしいが……」
神立はため息をつき、眉を寄せる。
「どうも成仏できねえらしい」
「ふむ……」
西郷も言子の素性を聞いて腕を組む。真剣な眼差しのまま、神立は暗がりを見据える。
「俺はおそらく、あの救いようのねえバカをどうにかしたい」
「君も大概、怪異と人間を同じように扱うね」
「バカ野郎。困ってる奴がいたらどうにかすんのが教師だろうがよ……笑ってんじゃねーぞ!」
神立の回答に、西郷は穏やかに笑う。反論する神立をなだめるように、西郷は両手を胸の前で上下させる。
「すまない。実に君らしくて、笑ってしまった。悪意はないんだ。許してくれ」
「……ったくよー」
眉間に皺を寄せたまま、神立は西郷から視線を外して、廊下の奥を見る。常夜の出口が目と鼻の先できらめいている。西郷も前を見て、光を認識しながら歩いて行く。
「私にできることと、君にできることは違う」
西郷は、穏やかな眼差しで神立を見やる。強面ながらに柔らかな顔に、神立の眉間の皺も緩む。頭をがしがしと掻いて、神立は視線を軽くさまよわせる。
「私は怪異に肩入れをすることはできないが、調べることはできる……彼女について、少し探りを入れてみるとするよ」
「西郷先生……」
怪異を恐ろしいと思う西郷からの提案に、汚い言葉を使うことも忘れて、神立は思わず同僚の名を呼ぶ。
西郷は得意げに笑って、顎に手をやる。
「ひとまずラーメンでも食べて、今日は解散としようじゃないか。では!」
「あっ! 出口の前が一番危ないって相場が決まってんだろ、バカ野郎っ!」
かと思えば、西郷は短い足で全力疾走を開始する。神立も慌てて、その後ろをついていく。やがて光が二人を呑んで、常夜から現世へと運んでいく――。
――。
「はー。いい人たちだなあ……」
大の男二人が喜び勇んで常夜を飛び出していく様を、言子は眺めていた。小さく弱い怪異である彼女を、気に留めるものはいない。歯牙にもかけられぬ彼女は、ただ、自分が行くことのできない光の向こうを見つめている。
「でも、私たちの仕組みで、一番大事なことを忘れてるんだよなあ……もう」
おかしそうに表情を緩めた後、言子は手を後ろに回して、いじけたように唇をとがらせる。爪先で廊下を蹴って、再び穏やかに微笑む。
「『名前』って、とっておきの契約なのに。さらっと言っちゃって!」
神立に名付けられた言子は、神立の窮地をいつだって知っているのである。それに気付いているのは、言子たった一人だけなのだ。
「……ばか。化けて出ちゃうから」
ほんのりと寂しげな表情を見せて、言子は光に背を向け、底知れぬ常夜へと一人で歩いて行く。自分の身体が縛られた、坂奇の闇へと溶けていく。
いがみ合い、殺し合い、時には協力し合う。人間と怪異は、今日も危ういバランスで背中を合わせている。
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