第1話 虚月さん 後編
細いツインテールに赤いリボンを付けた女子生徒は、脚立に軽く手を添えて、対面にいる少女に笑いかけている。
あんまりにも無害そうな笑顔に、少女も思わず問いかけてしまう。
「あなたが、虚月さん?」
「そうだよ、生徒ちゃん。私がコツキだよ。こーちゃんって呼んでね」
「おかしい……虚月、お前、なんでここにいる?」
ふわふわとした雰囲気に呑まれそうになった少女だったが、囃子のいやに緊迫した声で我に返る。
虚月はゆったりとした動作で、囃子へと振り返る。少女が見れば、囃子はすでにヨーヨーを構えている。
「なんでって、もう日没だよ?」
「は!? まだ何分かあっただろ……!?」
囃子も、真鍋も、少女も、時計を確認する。すでに、日没だ。はっとした顔で、囃子が顔を上げる。
「昨日の日没時間が更新されてないのかっ……!」
「おーあたりー。ふふ、ふふふっ」
背中の後ろに手を組んで、2-Aの怪異、虚月は笑顔の質を変える。ただの愛くるしい少女のものから、怪異にふさわしい不穏なものへと。
彼女の全身から、常夜の気配が流れ出る。
「やばい! 『ウロツキ』が出る!!」
「えっ……」
次の瞬間、脚立もろとも壁まで少女は吹き飛ばされていた。
「が……おぇっ……」
痛ましい声を上げて、少女は壁に叩きつけられる。脚立が悲痛な音を立てて歪み、彼女の足下へと転がってくる。
少女がやっとの思いで顔を上げると、虚月は壁と自分の身体で少女の身体を挟んで、舌なめずりをしていた。少女の髪を掴んで、怪異『虚月(ウロツキ)』は口角を上げる。
「く、くくっ、喰ろうてやろうか、喰ろうてやろうか。どこがいい? 頭か? 目玉か? 心臓か? 心臓は良いなァ、お前たちの想念が死ぬほど詰まった、心臓がいい――」
先ほどの少女とは打って変わって、凶暴な一面を見せる虚月に、少女は息を呑み、言葉を失う。だが、虚月の手が少女の胸から心臓をえぐり出す前に、彼女の手にヨーヨーの糸が絡まる。赤い閃光が、彼女の腕の周りを回った。
次いで、ペンライトの光が、虚月を照らす。
「チッ……! うぜえなァ、クソ学徒どもがッ……!」
忌々しげに虚月はヨーヨーの出先である囃子と、ペンライトを持った真鍋を見る。
拘束を得意とする囃子と、退魔の力を光に乗せられる真鍋。二人がかりで虚月の動きを止めている。
少女はその間に、壁と虚月の間から出て、必死に走る。
「逃がしゃしねェぞ!!」
虚月の咆哮と共に、歪んでぼろぼろの脚立が少女に向けて飛ばされる。脚立と少女の間に滑り込んだ囃子が、もう片方の手で青いヨーヨーを放つ。
「く、うっ……!!」
白い糸が脚立を掴んで、天井に吊すように持ち上げる。だが、勢いは止まらない。脚立の爪先が、囃子の腕をかすめる。
「この程度の退魔の力で、私を縛れると思うなよ……」
虚月はヨーヨーの糸を引きちぎり、きらきらと纏わり付く懐中電灯の光を振り払う。赤いヨーヨーが床にぶつかる乾いた音が、夜に覆われた教室に響く。
「っ、さすが『封印指定』……ロクなもんじゃないね」
囃子は笑顔を絶やしてはいなかったが、いつ暴れ回るとも知れぬ脚立にも気を配らねばならず、その場を動けない。
真鍋は必死に懐中電灯で追跡しているが、光を当てて虚月の動きを鈍らせる程度しかできはしない。
そして、少女はなにもできなかった。
(このままじゃ、私たち、みんな……)
――心臓は良いなァ、お前たちの想念が死ぬほど詰まった、心臓がいい。
脳が勝手に先ほどの虚月の言葉を反芻して、身体が震え出す。それでも、自らがやらねばならぬことがあると、彼女は自らを奮い立たせて立ち上がり、2-Aの扉を開く。
「誰かぁっ!」
虚月に背中を向けるというのは恐ろしいことだった。しかし、戦うことすら許可されていない彼女ができることといえば、黒洞洞たる廊下の彼方へ、助けを求めることだけだった。
「こんのアマァ!!」
「させるかっての!」
少女を狙った虚月に、囃子が吊したままの脚立を放り返す。激しい音を立てて、虚月の身体は脚立に巻き込まれて倒れ込む。
「みんな、こっち」
それと同時に、男性の声がした。はっとした囃子が急いで真鍋と少女をひっつかみ、脇目も振らずに教室から飛び出す。
「ミナミセンセッ!! 遅い!」
「すみません、会議が長引きまして!」
入り口前で立っていたのは、国語教師の辞本皆弥だった。武器である拡声器を握り、教室の中で身を起こす虚月を見据える。
「ドアを押さえておいてください。あとは僕がどうにかします」
囃子と真鍋、そして少女の三人が、虚月が飛び出してくるであろうドアを閉じる。辞本は拡声器を口元に当て、朗々とした声で言葉を唱え始める。
「かけまくもかしこみいざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに――」
それは儀礼前に唱える祓詞だった。たちまちのうちに、しめ縄が燐光を帯び、札から霜が張るように青い輝きが広がっていく。
「させるかよッ……! クソッ、クソ、忌々しいコトノハが……言葉の縄を私に掛けるか!」
虚月が扉に手を掛ける。隙間から出る赤い瞳に、少女は震え上がるも、手を離すことはしない。
「はらえたまひきよめたまえと、まをすことをきこしめせと」
輝きを増す教室の中に、虚月だけが吸い込まれていく。彼女は最後まで抵抗し、爪を立てていたが、やがて爪痕を一つ残してドアの向こうへと消え去っていく。
「かしこみかしこみまをす――!」
拡声器からハウリングが爆発し、ひときわ強い光が教室に満ちる。
「……」
そうして、不意に2-Aに静寂が満ちた。
虚月の封印に成功したのだ。
生徒三人は深いため息をついて、ずるずると座り込む。
「大丈夫ですか?」
「お、おかげさまで……」
「あっ、先輩。怪我しています……!」
「ああー、ダイジョーブ。かすり傷だし、あとで消毒しとっからさ」
少女は、囃子の腕にかすり傷ができていることに気がついた。しかし、囃子は手で彼女を軽く制して、首を横に振った。しゅんとする少女に、真鍋が手を差し伸べる。彼女の手を取って、少女は立ち上がる。
「ともかく、こういう感じでいろんな怪異をどうにかするのが、僕らの役目だから、これから頑張ろうね」
こんな恐ろしい存在を相手取っていることに、少女は少なからず恐れをなした。が、彼女は助けに来てくれた先生を見れば、優しい眼差しで彼女を見つめてくれていた。
「今回のことはかなりの例外です。少し休むと良いでしょう。歩けますか?」
「は、はい……」
幼子のようにスカートを握りそうになりながらも、彼女は先生に守られ、戦友たちと歩いていく。
暗い顔の少女を、真鍋がにっこりと明るい笑顔で覗き込む。
「あ、真鍋先輩……」
「これから頑張って行こうね」
「んっ!?」
真鍋の喉から出てきたのは、野太い男性の声だった。突然のことに目をむく少女を、囃子が笑う。
「いやー、真鍋先輩、声を怪異に取られちゃってね……」
「正直、喋りにくいよね」
怒ってはいるが、深刻さは感じない。そこに、囃子とは違う明るさを感じて、少女はほっとする。きっと、真鍋はこのチームの懐中電灯なのだ、と。
「早朝になったら、脚立を回収して机を戻しましょうね」
「あーあー、『ハズレ』だよなあ」
辞本と囃子のやりとりを数歩後ろから眺めながら、少女はやっと、穏やかな笑みを見せたのだった。
怪異の時間は、始まったばかりだ。
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