第1話 虚月さん 前編
季節は春も過ぎようかという頃。一人の少女が鞄を抱えて放課後の2-Aに向かっていた。
長い黒髪、もみあげに小さな三つ編み。どこにでもいる少女だったが、彼女には一つの秘密ができてしまった。
(お化けって、本当にいたんだ……)
つい先日の夕方のことである。忘れ物を取りに戻った彼女は、得体の知れないものに追いかけられた。
赤黒い煙のような怪物だった。必死になって逃げ回るうち、彼女は不思議な集団と遭遇するに至った。
『怪異対策委員会』。
そう名乗る生徒と教師のグループに、彼女は助けられたのである。
(まさか、私も参加することになるなんてなあ)
お化け――すなわち『怪異』と呼ばれるものに接触した彼女は、今日、課外授業を受ける約束をしたのである。
自分もまた、『怪異対策委員会』に加わるために。
「あ……」
「やあ」
少女が2-Aにたどり着くと、入り口に背を預けたニット帽を被った少年が、軽く手を挙げていた。
怪異とはいかなるものか。そして自らは何であるのか。ベルもない不思議な授業が、今始まろうとしている。
さて、生徒たちがそれぞれに座ったり立ったりして、自らの立ち位置を確保し、課外授業は始まった。
「まずはようこそ、『怪異対策委員会』へ。先生は後から来るから気にしないで」
ニット帽を被った少年がポケットに手を突っ込みながら、黒板の前でへらへらと笑っている。それを二人の少女が聞いている。
「その、本当にあるんですね、『怪異』とか『対策委員会』とか……ほんとにただの清掃委員会だと思ってました……」
うち一人の少女は坂奇学校に転校して間もなく、この学校の秘密を知らなかった。素直にそのことを話すと、少年は思わず笑い出す。
「あははっ、それはそうだろうね。僕も同じこと言ったと思う」
少女の後ろでは、マスクをつけた別の少女が、微笑ましげに少年の説明を聞いている。おそらくは、在籍して長いのだろう。
少女は『怪異対策委員会』の二人に挟まれて、緊張した面持ちだ。
「ダイジョーブ、さらっと終わるようにするからさ」
ニット帽の少年の名は囃子叫介といった。母を神隠しにさらわれて以降、彼は怪異を滅ぼすべきものと定めている。
彼は教卓に座って、ヨーヨーで遊び始める。真っ赤なヨーヨーが、糸を絡めることなく、回転しながら上下している。
「まず、この学校には無数の『怪異』が潜んでいる。それはもう、聞いたよね?」
少女が頷くのを見て、囃子は続ける。
「そう、序列を持つ七不思議と、大量の怪異。僕らの住む現世ならざる『常夜』の住人。それと、僕たちは対立している。序列壱が当然一番強い」
ヨーヨーを片付けて、軽やかな身のこなしで囃子は黒板の方へ降り、説明を記し始めた。お世辞にも綺麗とはいえない文字で、今判明している七不思議のテリトリーについて板書する。
「あれ、序列質……七番目は空席なんですね」
「まあね。ただ、例外で七不思議じゃないけど中等部まるごとテリトリーにしてるヤツもいるから、油断は大敵ってね」
囃子はチョークを置いて、手についた粉を払う。
「で、そんな連中に僕たちができることは、『浄霊』と『除霊』。この違いは分かる?」
「いいえ……」
少女が首を横に振ると、囃子は軽く腕を組んだ。
「浄霊は説得して成仏してもらうこと。除霊は強制的に殺すこと……僕は後者を推してるけど、君がどうなるかは分からないからね。ノーコメントにしておくよ」
少女は囃子の目の奥に、おそろしく冷たい何かを感じ取ったが、何も言い出すことはできなかった。囃子はニット帽を軽く撫でた後、笑顔を取り戻す。
「じゃあ、僕たちの話をしよう。僕らはランク付けがなされている。ほら、聞いたことない? 甲乙付けがたいって言葉」
「あ、それなら、知ってます」
笑顔を取り戻した少女に、囃子も笑みを大きくする。
「僕らの強さは、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干で表される。甲っていうと、もう校長先生クラスだね。僕らはもっと下さ」
うんうんと頷いて、囃子は再びヨーヨーを取り出した。
「ちなみに、囃子さんのランクはどこですか?」
「庚だね。上から七番目。で!」
笑顔のまま、囃子は腰に両手を当てた。
「ランクごとにやることも決まってる。僕は討伐隊、まだ単独行動は許可されてない。下のランク……水の兄弟たちの護衛役でもある」
七不思議の横に、囃子は自分たちのランクとすることについて書き始める。二人の少女は、それを見守っている。
「君のランクって確か、壬って言われてたっけ?」
「え、あ、はい。そうです……下から二番目、ですね」
「じゃあ、君の仕事は僕らと一緒に見回りをすること。戦闘許可も下りないから注意してね」
指折り数えて確認する少女に、囃子は振り向かず、板書を続ける。少女は、それを見て、一つ一つ覚えていく。
甲乙は木の位。方針の決定。
丙丁は火の位。下のチームと組むと引率役。先生に多い。
戊己は土の位。ここまで来て、やっと単独討伐の許可が降りる。
庚辛は金の位で、壬癸が水の位。チームでの討伐と、見回り。
(何だっけ、これ……あ、そうだ)
横につけられた五つの言葉について、少女は記憶を辿る。西洋のそれとは違う組み合わせがあるということを、少女はぼんやりと覚えがあった。
「これ、ゴギョウでしたっけ」
一度、不安になった少女は振り向いて、もう一人の少女を見る。少女は声を出さず、うんうんと頷いてくれた。
「あの……よろしければ、お名前を」
少女の質問に、うっかり忘れていたといった顔で自らの頭を平手で軽く叩き、もう一人の少女は手持ちのスケッチブックのページをめくる。
――真鍋里花。よろしくね。
あらかじめ用意していたのであろう文字列の下には、とても可愛らしい笑顔の顔文字が記されている。マスクで雰囲気が掴みにくかったというのもあったが、気さくな人なのだろうと少女はほっとする。
少女も名乗って、真鍋と軽く会釈をしあっていると、囃子の咳払いが聞こえた。はっとして、少女たちは前を見る。
「そーいうわけで、五行プラス兄弟姉妹を言えば、階級の自己紹介になるからよろしく!」
「私の場合は、ええと……壬、だから、水の姉ですか?」
「正解! ま、性別に合った形で兄姉どっちを使うかは決めればいいから、そう固くなることはないね」
このご時世だしと、囃子は軽くニット帽の位置を直した。
「というわけで、先生一人に生徒三人、生徒会一人に、単独行動可能な人が二人。この七人で協力し合って……」
そして、彼は自ら書いた怪異の項目に、赤いチョークで大きくバツを記した。
「怪異をどうにかする。オーケー?」
少女はこの明るい少年に、やはりどこかしらの薄暗さを感じていた。赤いバツで抹消された怪異の説明を見て、表情を強張らせる。
少女がふと窓を見ると、空はほんのりと夕暮れの橙に色付いて、徐々に夜の青に押されている最中だった。
「さてと。それじゃ、そろそろベンキョーはおしまい! 実践だ!」
「じ、実践って……出るんですか!?」
「満月の日の2-Aでやることなんて、封印に決まってるからね」
驚いた少女に、囃子は両手を腰に当てて笑う。
「おっと、分かってるね? 君は『戦闘許可が下りていない』。今回の君のすべきことは、自分の身を守ることと、封印方法を知ることだから、無理しないでね」
囃子が教卓から取り出したのは、長いしめ縄と清めの塩、そしてそれを盛る皿だった。
「じゃあ、やろっか! 封印作業!」
真鍋も頷いて、スケッチブックを部屋の外へ持って行く。既に、机や椅子と一緒に他の教科書やら部活道具やらは、廊下に出されている。
しかし、これこそが2-Aの怪異を封印する時の決まりだった。
「君はそっちね。僕と真鍋センパイがこっちやるから」
少女は木製の器を使い、神主の尺のようなへらで塩の形を整える。素焼きの皿に乗せられた盛り塩を持って、教室の片隅に向かう。
「それで、ここにいるのは『誰』なんですか?」
少女が二か所に盛り塩を置き、囃子に問いかける。囃子と真鍋も盛り塩を置き終わって、いそいそとしめ縄を張り始めている。教室を内側からぐるりと覆えるほどの長さのそれを飾るのは、三人でもなかなかに重労働だと、少女は汗ばむ肌もそのままに、従事する。
「コツキだな。虚空の虚に、お月様の月で、虚月」
ふうっと息を吐いて、囃子がしめ縄を留めていく。
「普段は無害なんだけど、こういう満月の日には確実に暴れる厄介な怪異でね……。あ、センパイ、お札の用意を。教卓の上にあるんで」
真鍋が頷いて、教卓の上に置かれた六枚の札を持ってくる。少女はしめ縄を手伝いながら、真鍋が札を張る位置を目視して覚えていく。
窓、扉など外界に繋がる部分に手際よく札が貼られていく。
窓と扉を除けば教室の前後左右で四面、あとは床と天井の二面のようだが、さすがに真鍋の身長では天井に届かない。
彼女はつま先立ちをしてみるが、ジョークの類であるとは、さすがに少女も分かった。
「あー……机でも届かない、か。先輩、外に脚立用意してあるんで、お願いします!」
しめ縄で手一杯の囃子に、真鍋がにこにこと頷く。
そのまま、真鍋は教室を出て、しばらく経たぬうちに、ずるずると脚立を持って来た。
彼女は脚立を慣れた調子で広げてロックを掛け、昇ろうとする。とっさに囃子が脚立を押さえようとしたのだが、彼女はにこにことしたまま首を横に振った。
「ですよねー。お願い」
「は、はい!」
真鍋がスカートを履いている以上、下に男子を配置するわけにはいかないということで、少女が代わりに脚立を押さえることになった。
軽やかな音を立てて、真鍋は天井に札を貼り、駆け下りる。
「よーし、日没ギリギリだけど、準備オッケー。部屋を出て鍵閉めて、あとは呪句を……」
手をぱんと叩いて、囃子が二人の少女に合図を送る。
その最中で、彼は表情を強ばらせた。真鍋もはっとして、ある一点を見つめる。少女も一拍遅れて、二人の見ている方向を見る。
「こんばんは、生徒ちゃん。今日も頑張ってるね!」
脚立を挟んだ向こう側に、見慣れない女子生徒が立っていた。
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