第6話 鏡裏

 闇の中をゆらゆらと浮かんでいる感覚がした。

 それは大変心地よく、闇自体が質量を持ち、自分の周りを覆う。

 しかしそれに圧迫感は無く、ただ柔らかな感触と、心地よい揺れが有った。


 それはまるでこの空間をたゆたう小舟になり、柔らかな水流の上に浮かんでいる様だ。


 暫く闇を楽しんでいると、どこからか声が聞こえてくる。


 このような気持ちの良い時間を堪能している時に無粋な声だ。

 とはじめは聞く耳を持たなかった。


 しかし次第に大きくなるその声色にはこちらを心配するような震えが伴っていた

 その心配そうな声を聞くのはまた随分と気持ちよく、しかしコチラの焦燥感を煽る。


 いつしか、声の方に感覚が引っ張られるようになった。

 この心地よい空間から引き離されそうになる。

 抵抗しようにも自分の意思ではどうにもならず、次第に闇が晴れていくような感覚に陥った。


 そして、先ほどまで柔らかく感じていた感触も、柔らかさはそのままだが、若干ザラザラした質感が加わっている。

 肌がより過敏になったのか。

 否、夢の世界から現実に引き戻されているのだろう。


 そうして一夜は澪のふとももの上で目を覚ました。



  *


「ちょっと大丈夫、一夜」


 澪は心配そうに一夜の顔を覗き込む。

 彼女の周りではミロクと妃花も心配そうに一夜を見下ろしていた。


「澪君、あまり動かさない方がいい。頭を打っているかもしれないから」

「どうします、救急車呼びますか?」


 妃花の一言に、ミロクがスマホを出して電話を掛けるふりをする。


「そうだな、もうしばらく様子を見て起きない様なら救急車を呼ぶか」


 ここは旧校舎のオカルト部部室内だった。

 一夜が床板を踏み外し、仰向けに倒れて気を失ってから三人はとりあえず一夜を部室に運んだ。

 ミロクが彼を背中に抱え、澪が後ろから補助した。

 先に戻っていた妃花が寝袋を広げ、一夜を横たえる場所を確保していたのでそこに横たえる。


「ん、ん……」


 先ほどまで気を失っていた一夜が呻き声をあげる。


「一夜、大丈夫?」


 澪が顔を覗き込むと、一夜がうっすら目を開ける。

 状況が分かってないようでぼうっとしたまま澪の顔を見つめている。


「一夜、私の名前分かる? ここが何処か分かる?」

「ん、どうした澪。ここは……、部室か?」


 心配そうな澪の声に対して、一夜がぼんやりとしたまま答える。

 しっかりとした一夜の答えを聞いて若干ほっとした表情を見せた澪は、他の二人に向かって笑みを浮かべる。


「良かった一夜君。しかし頭を打ってるからな、体調がおかしい場合はすぐに言うんだぞ」

「どこか痛いところはあるか?」


 妃花もミロクもほっとした表情で一夜の様子を確認する。


「んー、後頭部がじんじんと痛むが、それ以上にふわふわして気持ちが良いな」


 それもそのはず、一夜は澪の膝枕の上に頭を横たえていたからだ。

 自分の後頭部を確認しようとして一夜の手が澪のふとももを触る。


「ひゃんっ」


 さわさわっとした優しい撫で方をふとももに受けて、思わず澪は声を上げる。


「ん、これは澪のふとももか」


 そう言うと、澪が止める間もなく一夜がクルリとうつ伏せに転がり、顔面を澪の両脚のふとももの間に埋めた。


「ちょ、な、なにしてるのよ」


 口では不満を上げる澪だったが、病み上がりのけが人相手に強行手段に出れずになすが儘にされる。

 ふとももを両の手で挟み、ぐりぐりと顔をうずめその感触を楽しむ一夜に対し、ゾワゾワっとした悪寒が背中を駆け抜ける。

 ジャージ越しとは言え流石にこの仕打ちは厳しいものがある。


「ちょっとやめろ、キモイ」


 むずむずと澪が嫌がっていると、一夜が顔を上げて真剣な表情をし澪を見つめる。


「澪、頼みがあるんだ」

「な、なによ……」


 一夜に正面から見つめられ若干たじろぐ。


「脱いでくれないか」


 澪も含めて室内全員の動きが止まる。


「えっ、何。脱ぐ? えっ」


 この場で一夜を前にして裸になる想像をする。

 一糸まとわぬ姿で指先がふれあい、手を握り合い、そのまま抱きしめられる。

 華奢な体系に似合わず力強く抱きしめられると、心地よい圧力と温かいぬくもりが澪を襲い、脳をショートさせる。


「ジャージを脱いでくれないか。素肌のふとももで膝枕を堪能したい」


 ピシっ、と言う音が聞こえそうなほど場が凍り付く。

 澪は目を細めると坦々と一夜の手を取りゆっくりとふとももから剥がす。

 そしてそのまま立ち上がると、ゆっくりと一夜の後頭部に足を乗せ、踏みつけた。


「てめぇ、殺すぞ」

「いてててて、冗談だ、冗談」


 ぐりぐりと足をよじるとそれに合わせて一夜の髪が乱れる。

 五体天地するような恰好で澪の足の下に平伏す一夜を見て、澪は少し楽しくなってきた。

 思わす、ほーほっほ、とどこぞの魔女の様な笑いが出そうになったが、それは流石にぐっとこらえる。


 結局この仕打ちはミロクがやんわりと澪を止めるまで続いた。

 ちなみにその間妃花は笑い転げて全く役に立っていなかった事を追記しておく。



  *


「それで、あの後どうなったんだ」


 散々ぱら澪に足蹴にされた一夜は、後頭部を撫でながら席に座るなり聞いた。

 横で羨ましそうにこちらの後頭部を見つめてくるミロクの事は見なかったことにした。


「君が足を踏み外して後頭部を打った後は大変だったんだぞ。澪君が泣き叫んで、一夜が死んじゃう、一夜が死んじゃうって君の身体に縋り付いて」

「嘘を実しやかに言わないでください! 多少慌てましたけど、それは普通に目の前で人が倒れたからです!」


 慌てて否定する澪をだったが、少し顔が赤い。


「まあ冗談だ。君が倒れた後は、ミロク君に背負って貰ってここに運んできた。ちなみに膝枕は澪君が率先し」

「だから、嘘を付かないでくださいって。あれは一夜が頭を打ってたから、直接床に頭付けるよりもなんか枕的なモノが有った方がいいかなって思っただけだし。ミロクにやれって言ったら流石に男に膝枕はどうなのって断られて、それなら私がって妃花先輩が言ったから、それは流石に駄目だって思って、そうしたらもう仕方なかく私がやるしかなくなって」


 妃花の言葉を遮るとすごい早口で澪が弁明する。


「あ、ああ有難う。しかし、それなら膝枕でなくても他の寝袋を畳んだものとかでも良かったんじ、ぶおっ」


 一夜が指摘し終わる前に、正面に座る澪の蹴りが一夜の脛を鋭く蹴り上げた。

 暫く机に突っ伏して痛みをこらえる。


「膝枕する前に指摘しなさい、そう言うことは」

「そんな無茶な」


 澪の言葉に呆れた様にミロクが突っ込みを入れる。

 暫く気まずい空気が流れた後、痛みから復活した一夜が起き上がる。


「状況は大体わかった。みんな有難う」


 素直にお礼を言う。


「それで、あの鏡はどうなった?」

「どうも何も、あのままスッと消えてそのままだ」


 ミロクがお手上げとでも言う様に手を肩の高さ程に上げる。


 一夜は考える、今日起こった出来事を。

 目の前で鏡に浮かび上がった少女。

 いや、あれは少女では無く少女の人形だった。


 白磁のビスクドール。

 身長は座っていたため完全には分からないが、それなりに大きそうであった。

 恐らく目安で百二十センチメートル位だったかもしれない。


 純白のドレスに、白い肌。

 ストレートの髪は金髪であった。

 青い瞳に赤い唇が妙にインパクトのある印象的な顔立ちをしていた。


 彼女、あえて彼女と呼ぼう。

 彼女は確かにそこに居た。

 あの空間に確かに彼女が居たと、一夜の直感が訴えていた。


「もう一度見に行こう」


 そう言うと一夜は立ち上がる。

 ミロクと澪が「えっ」と不思議そうな表情をしたが、一夜に続き立ち上がった。


「駄目だ」


 しかしそこで妃花が座ったまま一夜を止める。


「一夜君、君は今日頭を打ったんだ。今日はもう帰って休め。そしてじっくり考えろ。週明けの月曜日にまた部室で話を聞こうじゃないか」

「でも……」

「なあに、あのは逃げやしないよ。大丈夫だ」


 それでも食い下がる一夜を、柔らかい笑みを浮かべて諫める。

 妃花にここまで言われている以上、一夜は引き下がらずを得ない。

 しぶしぶ頷くともう一度席に座りなおした。


「分かりました。仕方ないので今日は帰ります」

「良し、それじゃー部室を片付けて帰るか!」


 妃花の掛け声に合わせて三人は片付けを始めるのだった。



  *


 からからと自転車を押す音が朝焼けの中に響く。

 学校からの帰り道、自転車を押すミロクを中心にし三人は駅へと続く道を歩いていた。

 すでに始発は走り始める時間帯だが辺りに人影は一つも無かった。


「あれ、何だったんだろうな」


 ミロクが呟く。


「あれとは?」


 一夜が答える。


「今日見たモノだよ」

「鏡か? 鏡に映った少女か? 鏡に少女が映っている現象か?」

「全部だよ」


 その言葉に答える者は無く、辺りは静寂に包まれる。


「実は考えている事がある」


 ぽつりと一夜が呟いた。

 その声はまだ不確定なものを無理やり言葉にするようで酷く不安定なものだった。


「なぜこの時間だったんだろう。なぜ鏡はあそこに有ったんだろう。なぜアレは少女の霊などでは無く人形の姿をしていたんだろう。なぜ先輩はあのは逃げないと言ったのだろう。なぜあのなんだろう」


 一度声に出すと「なぜ」が積み上がっていく。

 妃花が一夜達にこの七不思議を見せたのには何か理由があるはずだ。

 ただ怖がらせようとしたわけじゃない、その確信がある。


「一夜は何、この『鏡面の少女』に何か謎でもあると思ってるの?」

「澪は何も感じなかったのか?」

「いや、マジ不思議な現象だなとは思ったけど……」


 澪が不思議そうな顔をしてうんうん頷く。


「でもアレだよね。先輩、本物って言ってたけどそんなに怖くは無かったよね」

「そうそう、それ思った。まぁ、一夜が頭打って怖がる暇が無かっただけかもしれないけど」


 ミロクと澪が一夜の話で盛り上がる中、一夜は思考の海に浸っていた。


「どうしたの?」


 そんな一夜に気が付いた澪が声を掛ける。

 しかし澪の言葉には気が付かなかった一夜はぶつぶつと自問自答を繰り返す。


「怖くなかった。妙な現実感が有った。なぜ先輩はじっくり考えろと言ったのか。先輩は俺たちに何を求めているのか…」


 悩みこむ一夜を見ながら、ミロクと澪は笑みを交わした。

 一夜がこうなるのは珍しい事ではない、思考の海に入ると周りが見えなくなる。

 それこそ曲がらなければならない道を通り過ぎてしまうくらいには集中している。

 今までもこうなった場合のフォローは二人が務めていた事が多い。

 何処までこの状態が続くがとりあえず、駅までの道は手を引いて連れて行ってあげよう。


「もしかして、『鏡面の少女』は本物じゃないのか?」


 その呟きにミロクが反応する。


「でも、先輩は旧校舎の七不思議は全部本物って言ってたじゃん?」


 ミロクの言葉が聞こえたのか、ふんふんと頷き、その後天を仰ぐように考え始める。


「そうだ、先輩は旧校舎の七不思議は本物だと言った。しかし、どうにも『鏡面の少女』は本物とは思えない。矛盾だ。でも矛盾は無いとしたら。偽物だが本物である。新校舎と旧校舎の関係と同じ。するとどうなる、やはり本物であるのか」


 澪は苦笑しながら一夜の様子を眺めると、彼の手を引いて歩き出した。


「もう、一夜は考え出すと止まらないね。これでふともも、ふともも言わなければまだマシなんだけどねぇ。ほら、駅はこっち、曲がるよ」

「まぁ、一夜の半分はオカルトで出来ていて、半分はふとももで出来ているからね。しょうがないよ」

「ふとももで出来ているとか、意味わかんない、キモイ」


 結局、一夜は澪に家まで連れていかれるまで思考の海に浸っていた。

 チャイムを鳴らし対応してくれた一夜の妹に、一夜を連れ帰ってきたことを伝えと、その瞬間妹の目の色が変わり、猛烈な勢いで一夜にドロップキックを噛ましそのまま引きずり家の中に放り込む。


「相変わらずハードだね旭陽ちゃん」

「もう、澪お姉ちゃんに迷惑かけるなって口を酸っぱくして言ってるのに、ちっとも言う事聞いてくれなくて、流石のあたしも切れるよね、切れきれ」


 中村旭陽なかむらあさひ、一夜の二個下の妹であり、現在中学二年生である。


「ほんと、うちの馬鹿兄貴をここまで面倒見てくれるの澪ちゃんだけだよ、ねえ、澪ちゃんうちに嫁入りして、お姉ちゃんになってよ」

「あははは、お嫁さんはまだ早いかなあ、って」

「えー、なんでー。お兄ちゃんの事は嫌いでいいから、あたしのお姉ちゃんになってよ」

「色々と矛盾してる感じもするなぁ」

「お兄ちゃんの相手してくれる女の人なんて、澪ちゃんだけなんだから、お兄ちゃんはもっと澪ちゃんを敬うべきだよねー。きっと、お兄ちゃん澪ちゃんと結婚できなかったら、生涯ニートで禿げ上がって、五十歳くらいに親に刺されて死んじゃうと思うんだよね」

「ちょっと極端かなぁ。一応一夜も私以外の女の人とも交流有るよ?」

「うっそ、何それ、どこの馬の骨? ちょっとあたしが今から行ってパンチ食らわしてくるよ。安心して澪ちゃん!」


 澪は旭陽と会うといつも彼女のバイタリティに圧倒される。

 お兄ちゃんの一夜が好きなのか嫌いなのかも判断しづらい。


「おい、旭陽、あまり澪を困らせるなよ」


 玄関越しに復活したのか一夜が声を掛ける。


「うっさい馬鹿兄貴、大人しく部屋に帰って寝てろ」

「はいはい、澪ありがとな」


 扉越しに一夜が澪にお礼を言うと、そのまま足音が遠ざかり階段を上っていく気配がした。


「それじゃ、私も帰るね」

「あ、はーい。うちの馬鹿兄貴を連れてきてもらって有難うございました」


 ぴょこんとお辞儀をすると、澪の背中が見えなくなるまで玄関先でお見送りをする。

 やれやれ、と嘆息するが、復活した一夜が旧校舎の七不思議に対してどんな解答を見せるのか少し楽しみな澪だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る