一年後の五月 エピローグ・ニート拾いました。

 俺の家にはペットがいる。猫でも犬でもない、ペットがいる。俺があげた首輪をつけて俺があげた猫耳と尻尾をつけて、俺をご主人さまと呼ぶ、女の子がいる。一年前のちょうど今日、仕事から帰る途中で拾った。

 いつもは行かない飲み会に行ってちょっと道に迷ったときだった。暗い住宅地の公園で彼女は小さな段ボールに足を突っ込んでベンチに座っていた。まるで誰かが迎えに来てくれるのを待っているかのように真っ直ぐに前を見つめて普通の人には見えない何かを見ているようだった。暖かくなってきたとはいっても、まだ春先であの夜は特に寒かったのに部屋着でカタカタと体を震わせながら心は寒さなど感じていないように無表情だった。

「・・・何、してるんですか?」

気がつけば俺は彼女の隣りに立って声をかけていた。彼女はまるで夢でも見ているかのようにぼんやりと俺を見上げて焦点を合わせるようにじっと見つめてきた。その瞳の暗さを俺は今でも覚えている。

「家に帰らないんですか?」

「・・家はありません。捨て人なんです。」

「家出、ですか?」

「・・・・・」

じっと俯いて足元の拾ってください、と書かれたダンボールを見つめている小さな背中に俺は気づいたら手を伸ばしていた。とにかく、彼女をこのままここにこうして置き去りにできないと思った。そうして今でも一体何を考えていたのかわからないくらいすんなりと俺の口から言葉がこぼれていた。

「俺が、拾うから。家においで。」

その瞬間、はじめて彼女の顔に表情が浮かんだ。恐怖のような驚愕のようなそれでいて歓喜のような、とにかく今にも叫びだしそうな表情を浮かべて俺を見た。彼女は何も言わずに、どこかに誰かの姿を探すように後ろを振り向いて泣きそうに唇を噛んで立ち上がった。雨でも降っていれば、まるでドラマか漫画の世界だな、なんて思いながら俺は彼女の小さな手を引いて家に帰った。その間、彼女は唇を噛んだまま、何も一言も発しなかった。

 俺は恋人がいたし、恋人ともそれなりにうまくやっていた。つまり別に女に不自由していたわけではなかったため、特に彼女に何かを求めるつもりもなかった。本当にただ気まぐれでペットとして飼うことにしただけだった。それにすぐに出て行くだろうと思ったし、もしも男女の関係になってしまったらすぐに出て行ってもらうだけだと思っていた。俺は、それくらい淡白な感情しか持ち合わせていなかった。女は女だし、男は男だ。両者の利害が一致して初めて惹かれて求め合うんだと、疑いもなく生きてきた。

「・・・服は、その辺にあるシャツを着てください。」

「はい。」

「それから・・・あぁ、ここのクローゼットを部屋にしていいです。使っていないので。」

「・・・・広い、クローゼット。」

「俺は、葉です。細貝葉です。君は?」

「・・・・名前は、拾われたばかりなのでまだないです。」

真面目な顔をして部屋中を見回しながら、彼女は言う。その姿がおかしくて俺はなぜか一瞬で彼女を好きになれると思った。

「わかりました。では、考えておきますね。それまでは、ペットと呼びますから。」

「・・・わかりました、ご主人さま。」

表情はやっぱり、固くて寄せられた眉が悲しいのか怒っているのかはわからなかったけれどとにかく俺は彼女をペットとして飼う事を決めた。

 飼い始めてから何日かすると彼女がとても精神的に不安定だということがわかった。そりゃあ、あんな夜中に公園で捨て子をしている子が普通なわけがないと思っていたから特に気にはならなかった。突然、声も出さずに泣き出したり、突然、顔の表情が真っ暗になることもあった。感情の起伏が激しくて一度マイナスになってしまうと唇が赤くなるまで噛むし、体に触れるのを極端に嫌がるし、とても初心者向けのペットではなかった。

「・・・拾わなければ、良かったって・・・思ってますかっ、」

クローゼットの中でひくひくと喉を震わせながら吐き出すように聞こえてくる問いかけに、扉の前で堪らず苦笑いをしながらできるだけ優しい声で答える。

「そんなこと思ってませんよ。」

「けど、・・・けどっ、私は、なんの役にも、たたっないし。」

触れて抱きしめられたら、俺はそれくらいしか気持ちの伝え方を知らないのに。彼女は固くクローゼットの扉を閉めて俺の入る隙間を与えてすらくれない。だから、俺はいつも必死に扉の前で自分の心を曝け出して。

「そんなことはありませんよ。・・・いてくれるだけでいいです。家であなたがいてくれるだけで、俺は・・・満たされます。」

「でも、でも、でもっ」

世界の悲しみや苦しみを全て吐き出すように、彼女は一人で泣く。俺にもその悲しみを分けてほしい。そう思っても彼女は触れることすら許してくれなくて俺はもどかしくて何度も、何度も。

 俺の心にはいつの間にか、彼女がいた。酷く不安定で脆い彼女が俺の今まで見たこともないような場所を引っ掻いて掻き毟ってどうしたらいいのかわからない傷跡を残した。

「・・・はあ、ペット?お前、とうとうそういう危ない趣味に目覚めたわけか。」

「違うよ。そういうんじゃないんだけど、なんていうか放っておけないんだ。」

「へえ。お前がねえ。」

楽しそうに珍しそうに、幼馴染である奏士は俺を見てそれから台所で焼き魚と格闘している彼女を見つめた。最近は、だいぶ落ち着いてきたし、俺が触れるのを嫌々ながらも承諾してくれた。今では、頭を撫でてやることくらいなら毎日しても怯えない。

「だから、奏士も優しくしてやってよ。いじめるなよ。」

「わかってるよ。俺はお前よりは常識人だから。安心しろ。」

ようやく焼きあがったらしい焼き魚を運んできた彼女の手からさり気なく奏士は皿を取ると、なんでもないような仕草で頭を撫でた。あまりにもなんでもないため俺はうっかり見逃してしまいそうになったけれど彼女は驚いたように嫌悪の表情を浮かべて体を引いた。

 いつの間にか、彼女がいる生活が当たり前になっていた。彼女が笑うと俺も笑ったし、彼女が泣けば俺も泣きたくなった。何気ない仕草が、愛おしくてたまらなかった。俺に見せてくれる表情が増えるほど俺が見せる表情も増えた。俺は、彼女から目が放せなくなっていた。

「ご主人さま、ご主人さま、今日は七夕ですよ。」

「あぁ、そうだっけ。もしかしてそれ、短冊?」

「はい。この家には笹がないので観葉植物で代用です。」

「はは、なるほどね。俺も書いて良い?」

「もちろんです。」

はい、と渡された折り紙で作られた短冊にあのときなんて書いたのか。俺は、思い出すことすら怖くてできなかった。

 彼女がいなくなる日々なんて想像すらできなくなった。

「ご主人さま、車あるんだから一日くらいどっか出かけましょうよ。黄金連休を全部仕事に費やして、代わりにもらった代休も家で過ごすなんて暇すぎます!!ひますぎる!!」

リンリンと俺があげた鈴を鳴らしてペットである彼女はソファの上を跳ねるようににじり寄ってくる。俺はその姿をぼんやりとソファの隅に座って見つめながら、心の声に耳を傾けていた。

 彼女はこの檻から出たがっているのかもしれない。もう、あの頃よりもずっと落ち着いたから、外に出たいと思い始めているのかもしれない。この間、覗いた彼女の部屋であるクローゼットの中はずいぶんとさっぱりと片づけられていた。まるでいつでも出て行けるようにしてあるようでとても怖くなった。

「そうだねえ。どっか遠くにでも行こうか。せっかくだし。」

「そうそう!行こう、行こう!!」

俺が呼んだら、すぐに抱きしめられる場所にいて。俺のすぐそばにいて。ずっと、いて。

「じゃぁ、明日出かけようか。」

「明日!?急だな、まあ、いいか。どこ行くんですか?」

不思議そうな顔で見つめてくるペットの頬に指で触れる。最初に会ったときとは違い、まるで猫のように目を細めるから本当に猫だったらよかったのに、と。

 君に触れるこの手に何の意味も感情もなければきっと。俺は誰のことも傷つけずに済んだかもしれないのに。

俺に触れるこの手に何か意図や下心があればきっと。君を誰よりも大切に思わずにいられたかもしれないのに。

「さあ、どこがいいかな。」

俺は君の荷物も心も何も知らないふりをして、ただ優しく笑うだけだ。答えを聞くのが怖くてたまらない。どんなに大事にしても、しても、心の裏には違う声があることを俺は知っている。

例えば、明日君が俺の前から消えたとしたら、俺は君のことを探すことができるのだろうか。探そうとするだろうか。

俺は自分の面子も心も何も見えないふりをして、ただ柔らかく笑うだけだ。答えなんて考えたくもない。どんなに君を大事にしているのか、わかるのが怖くてたまらない。

ねえ、そこにいて。動かないで、ここにいて。

 目の前のペットを抱きしめるために、俺は手を伸ばした。

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ニート、拾われました。 霜月 風雅 @chalice

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