四月 修羅場

 春の風というのは暖かく思えて、実は冷たいのであると知っている。なので、春は晴れていても窓は開けない方が良いのである。なんてことを思いながら、ぽかぽかと差し込んでくる日の光線で身体を温めながら昼寝をしようとベッドの上でタオルケットを探しているときだった。

「はい、探し物はこれでしょ。」

「あぁ、そーです。どーもです。」

ふわりと体に肌触りのいいお気に入りのタオルケットがかかり、かと思うとギシギシと何か重量のあるものがベッドに乗ってきた。

「もー。ご主人さまは仕事あるんでしょー。邪魔しないでー。」

目を開けるのすら面倒で私は目を閉じたまま、ベッドの上にそして私のすぐ後ろにいるであろうご主人さまに抗議する。しかし、そんな抗議などお構いなしにご主人さまは長い腕をするりと私に絡め、まるで抱き枕よろしく状態で後ろから抱きしめられる。ごちん、と額が私の首にめがけぶつかった。

「あったかーい。どうしたの、眠いの?」

「眠いの、だからお昼寝するんでしょ。」

腰というよりかは、お腹に近い場所に巻きついている手は緩く、背中を響いて伝わってくる声は穏やかだ。ぽかぽかと温まっていた体はこの眠りを手放すはずもなく私はそのまま、すとんと眠りの海に落ちていった。

 私は寝返りを打った。その拍子に夢の中にあったはずの意識がぼんやりと顔を出して、夢と現の間をうろうろしていた。

「・・・何、これ・・!?」

刹那、誰かの声がしてガタンと何かにぶつかるような何かを落としたような音がした。徐々に意識が浮上してくる。

 薄っすらと開けた目には、もはや見慣れた黒い天然パーマが見えた。私と同じシャンプーの匂いとそれから、ほんの少し汗の匂いがした。

「んーっ・・」「うん?」

お前、何か言ったか。の意味をこめて、ちょっと唸るとご主人さまも起きたのか低く唸って、伸びをするように私の体を力いっぱい抱きしめる。

「いたいいたい、それ本当痛いんだからね。いつも言うけどさあ、」

「あはは、ごめんごめん。」

「擦り寄るな、放せー」

じたばたと軽く伸びるついでに体を動かす。ますます抱きついてくるご主人さまのふわふわの頭をべチンと叩くと寝起きで少し掠れた高い笑い声が飛んできた。

 しかし、そういえば私はいったい何に起こされたのだっけな。

そんな声が聞こえたわけではないだろうが、そのとき寝室の扉で何かが動いて誰かが喋った。

「何なの、これはどういうことなの?」

「!!」「にゃ!!」

その声がした途端にわかりやすく、びくんとご主人さまの体が固まり、私は驚いて口から実にペットらしい声が出た。そろりと、顔を上げてそちらを見た。女の人が立っていた。

 あ、ヤバイかもしれない。

私は本能的にも、常識的にも、そう思った。いや、何もマズイことはしていないのだけれどただ単に昼寝をしていただけなのだけれど、だけれど非常にヤバイことになったことは確かなのである。

「どういうことなの、葉くん。説明してっ!!」

彼女さんは、大きな本当に大きなまん丸の目をキッと鋭く吊り上げて、怒りのせいか興奮のせいか、頬は赤く火照っている。あー、これはオーマイガーだわ。確実にオーマイガーだわ。いまさら、寝たふりなんてできないから、私はのろのろとベッドの上で体を起こした。まるでそれにつられたようにご主人さまも体を起こした。必然的に私とご主人さまは向かい合う形になる。ご主人さまの顔は、ふありとかかった乱れ髪であまり見えなかったけど、確実にまたあの無表情になっているだろうとわかった。

「・・あの、光江さん、実は、」

「浮気してたの?私に隠して・・いつから?」

そら、浮気だったら隠すに決まってんだろ。口元まで出てきた言葉を慌ててごくんする。私はいないふりをして、心を無にしていた方がいいと悟った。

「違うんです、光江さん。浮気では・・なくて、」

ご主人さまの声がだんだんと小さくなる。そりゃそうだ。浮気ではなくてペットなんです、なんて言ってみろ。浮気よりも酷いことになる。それにしても、ご主人さまが彼女さんと生で話をしているのを見るのは初めてだけど、何か不思議だな。いや、不思議と言うよりは変な感じか。きっと自分のお兄ちゃんとか弟の痴話げんかを見ているような。

「浮気じゃないなら、なんだっていうの。そんな、若い・・・ふざけた子と。」

彼女さんが、私を見てちょっと困ったように目を泳がせた。ですよねえ、思い出してみると私、今かなりふざけたかっこうしてますもんね。

 春に向けてご主人さまの変態ぶりはますます速度と調子を上げて、昨日の夜出張から帰ってきて早々に渡されたお土産は、いったいどこから見つけてきたのか、素敵な大きな鈴であった。そのリンリンとうるさい大きな鈴をご主人さまはクリスマスに買ってくれた私の青色の首輪に装着させ、満足そうに頷いていた。

 そうして、私は今、首にそれをぶら下げて薄手の上下つなぎの犬の着ぐるみを着ている。下はタオルケットが掛かっているし、寝ていたのでフードは被っていないので立ち上がらない限りはとりあえず、ギリギリセーフです。と、信じてます。

「・・・あの、とにかく落ち着いてください。」

「落ち着けませんっ!もう、葉くんは、私のこと、嫌いになったのでしょう?」

「違います、そうではなくて、」

「私、知ってるの。葉くんが、他にもたくさんの女の人と付き合っていたこと。」

「それは、あなたと付き合う前の話です。光江さん、あなたと恋人になってからは、俺は一度もそんなこと、」

「じゃぁ、その子は?その子はなんなの?」

わおわおわお、私はどうしたらいいでしょう。使い方違いますが、間違いなく穴があったら入りたいです。今や、完全に彼女さんの方を向いてしまったご主人さまは、無表情のまま、けれど少し声を大きくして彼女さんに彼女さんをいかに愛しているかを告げた。けれど、驚くほどにバッサリと彼女さんはその告白を切り捨てた。すげーな。私だったら、あんな風に言われたら超照れるよ。照れちゃってしばらく何も言えなくなるよ。

「・・葉くん、楽しそうだった。私には見せてくれないような表情で、聞かせてくれないような声で・・・私、私は、葉くんの恋人のはずなのに。」

「光江さん、俺は光江さんを本当に愛しています。俺の恋人は光江さんだけです、だから、」

またしても、愛の告白。すごいなあ、こんなに男らしいご主人さま初めて見た。彼女さんの前ではいつもこうなのかな。だとしたら、私といるときに見せるさっきみたいなふわふわとろーんなご主人さまは、私といるときにしか見せないということ?だとしたら、だとしたら、

「もう、そんなこと言われてもわかんないよ。どっちの葉くんが本当の葉くんなのか。どっちの葉くんを信じていいのか。私、わかんないよう。」

「光江さん、」

私が思っていたことと、ほとんど違わないようなことを言って彼女さんは大きな目から、ポロポロとまるで真珠のような涙を流し始めた。きゅっと結ばれた唇はツヤツヤと光る桃色をしていて、あの唇とご主人さまはキスをしたんだろうか、とぼんやりと思いながら、私は無意識に自分のどちらかといえば、カサカサの唇に触れた。

 私はペットだ。ニートのペットだ。ご主人さまに拾われて家で飼われている可愛くもなくスタイルも立ち振る舞いも行動もよくないただのペットだ。ご主人さまには恋人がいる。告白してお付き合いをしている、目の前で泣き崩れるスタイルも顔も立ち振る舞いも完璧な女性だ。そんなことは本当にどうでもいいし、関係ないけれど、それでも、私はペットで彼女さんは恋人なのだ。

「・・・・・、」

じっと泣いている彼女さんを見つめているご主人さまはいつもと違う人のように無表情なのに、なぜか泣き出すんじゃないだろうかと一瞬本気でそう思った。

 普通ならこんなとき、彼氏は彼女に駆け寄って抱きしめるものだ。きっとご主人さまもそうするだろう、彼女さんと二人だけなら。

「・・・、」

私がここにいる限り、ご主人さまはそんなことはできないし、ここを動くことができないのだろう。駆け寄ることもキスをすることもできない、抱きしめることも愛の言葉を囁くことも。私の目の前では、そんなことはしないのだ。この一年近く一緒にいて私はご主人さまにそれくらい愛されている自信があるし、私もご主人さまをそれくらい信用している。

「・・・光江さん、」

私がここにいることで、目の前の優しいご主人さまが苦しんでいる。私は小さく誰も見ていないのをいいことに大胆に声を出さずに笑った。おかしくて堪らないように顔中で笑って、それを全て消すように無表情にして私はベッドからタオルを腰に巻きつけたままにして、降りた。ズルズルとタオルが床を擦る微かな音は、彼女さんの悲痛な泣き声に掻き消されてしまっている。彼女さんは気づかないから、却って好都合だ。部屋に響く彼女さんの泣き声は、何かに脅されているかのように病的な泣き声とは全く違う、美しい泣き声だ。

 私もですよ、ご主人さま。

心の中で小さく呟いて、私は何も見ないふりをして自分の部屋であるクローゼットに入って、扉をパタンと静かに閉めた。何も聞こえない何も見えない無の世界で私はタオルケットを肩まで被り、扉に背を預けた。何も聞こえない、何も見えない暗闇の中で、私はただ正面の壁を見つめていた。いや、何も見えない壁のあたりを視界に映していたというべきか。

「はあ、眠い。」

でき得る限り、小さく呟いて私は目を閉じた。いつか、こうなることが予想できないはずはなかった。見ているドラマでこんなシーンがある度に、どうするんですか?とご主人さまに尋ねたし、二人が電話しているときやイベントがあるときはなるべく物音や気配に注意するようにしていた。それでも、人生なんてこんなものなのだ。

 ご主人さま、殺されないといいけど。

ゆっくりと目を閉じて、外の気配に耳を澄ませる。未だ、少しひんやりとする扉が頭の熱を奪っていく。床に敷かれたマットも、今背中に当てているクッションも、ご主人さまがくれたものだ。私のまわりはご主人さまでいっぱいだ。

「・・・もう、ねむい。」

体育座りをして畳んだ膝の上に頭を乗せて、私は一つ大きく静かに深呼吸をした。どうしようもなく叫びだしたい衝動を飲み込んだ。

 こつん、こつん、どれくらいそうしていたのかわからないけれど、扉に何かが当たる小さな音と振動で顔を上げた。頭の中がぼんやりしているのは、きっと眠っていたからだろう。春先はまだ寒いので冬眠細胞が活発だ。

「・・・起きてる?」

「はい・・・いま、起きた。」

扉を伝うように無音の世界に突然、低い細い声が入ってきた。私は、少し掠れた声で小さく返事をした。まだ、覚醒しきっていない感覚が、体が、まるで微温湯の中にいるようにぼうっと身体中を包んでいる。

「・・大丈夫だった?ごめんね、びっくりさせて。」

「それは、こちらのせりふです。大丈夫だったんですか?」

 そんなはずはないのに、なぜか扉ごしにご主人さまの広い背中が触れたような気がして、私は扉に頭も背中も預けた。冷たい熱が、広がっていく。私とご主人さまの間にあるのはたった一枚の扉だけだった。なのに、たった一枚の扉の向こうがどうなっているのか私にはちっともわからない。今、外の世界は暗いのか明るいのか。どんな結末を辿ったのか。中にいる私には何も、わからない。

「ご主人さま、」

わかるのは、ただ一つ。この扉のすぐ向こうにいるご主人さまがとても傷ついているということだけ。何も言えないくらいに深く悲しんでいることだけ。そうして、どうしたらいいのかわからないくらいの苦しみを感じていること。そうして、その悲しみをご主人さまは自分の中でなんとか飼いならそうとしていることも。

「・・・俺、・・」

扉を一枚、隔てた向こうにご主人さまがいる。私は、それなのに私はどうすることもできないで、ただじっと何も見えない目を凝らしていた。まるでそうして、壁を見れれば何か解決策が書いてあるかのように、ただじっと見つめていた。

「ねえ、ご主人さま。」

 冷たい扉に背中を預けて、私は身体の力を抜いた。この扉が私とご主人さまとの境界線だ。たった一枚の板がペットと主人の仕切りだ。この冷たくて固い扉を、ご主人さまは決して自分からは開けないということを私は痛いほど知っていた。

「・・・ご主人さまが泣くと、私も辛いです。」

扉を伝わって声が届くといい。扉越しに温かい背中が触れる気がした。私はそっと目を閉じた。何かが頬を、流れたような気がした。ご主人さまはきっと、自分からは何もしないだろう。悲しみも感情も、全部を自分の中に抑えて飼いならす。

 だから、

「私は、ご主人さまが、大好きですから。」

扉も、境界線も、仕切りも、本当はどこにも  ない。

 遠くで何かが崩れる、音がした。


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