三月 ホワイトデー
ケーキを半分にしてフォークに乗せ、私はゆっくりと口に運ぶ。ふんわりとした甘さの生クリームが溶けて緩んだ口元を見て目の前に座っていた残念なイケメンの子犬のような瞳が優しい大人の色を湛えながら、三日月のように細くなった。
「うまいか?」
「・・・うん、うまい。」
「そりゃあ、良かった。」
残念なイケメンは、今までにないくらい深い声音でそれだけを言うと上品なカップに入ったブラックコーヒーを一口飲んだ。
まわりは、カップルだらけでなんとも居心地が悪いけれど目の前にあるケーキは美味しいので何も考えずに食べることにした。
どうしてこんなことになっているのか、それは単純明快なことだ。事の始まりは、今日の朝に遡る。
「ご主人さま!今日は、ホワイトデーです!!」
「うん、知ってる。チョコレート美味しかったから、お返しは何が欲しい?」
「そうですねえ、美味しいクッキーが・・・じゃなくて!!彼女さん!彼女さんにも、チョコをもらったんだから、お返ししなきゃ!!」
ごろごろとベッドの上で私を抱き枕か、もしくは毛布のようにぎゅうっと抱きしめているご主人さまに向かって言うが、お腹に顔を埋めているご主人さまはまだ眠そうに甘えた声でとぼけたことを言う。何度も寝返りを打ったせいでくしゃくしゃになってしまっている黒い髪ごと頭を軽く撫で叩いて抗議すれば、うーんと返事なのか唸り声なのかわからないような声を出しながら手当たり次第に手を動かし私の腰やらお尻やらをもがくように撫ぜ、触れる。
「今日じゃなくても、いいと思う。」
「思わない。今日だと思う。」
「・・・絶対?絶対、今日?」
「絶対、今日。」
「思う?」
「思う。」
お腹越しに伝わる言葉をお腹越しに伝えるように力を入れて答えれば、ご主人さまはえーとかあーとか言葉にならない何かを幾つか零して、わかった。とだけ言って私の体を開放した。撫で上げられたせいで捲れてしまったシャツから覗くお腹が寒い、そう思っていた思考を読まれたのかご主人さまは起き上がる直前に私のお臍に軽く鼻で触れて笑いながら、シャツを直した。
そんなこんなで一人残されることになりそうになった矢先、出かけるご主人さまが出て行く扉の向こうにまるで待っていたかのように残念なイケメンが立っていた。
「あれ、葉。でかけんの?」
「うん。ちょっと、野暮用で・・・」
「なら、ペットちゃん借りていい?ホワイトデーのお返ししたいから。ペット、準備しろ、すぐ行くぞ。」
「・・・へ?わ、わかった。」
玄関で何かを喋っている二人を放って私はバタバタと出かける準備をした。全て整って玄関に出たときにはご主人さまはむっつりとほんの少し機嫌が悪そうに眉を寄せていたが、私の頭をいつものように優しく撫でて楽しんでおいでね、と言って出かけていった。
「ペットちゃん、一口くれ。」
「え、あ、あぁ、いいよ。」
意識がトリップしていたらしい隙に残念なイケメンが、手を出して私の手にあるフォークを要求していた。まさか、まわりのカップルのように口にあーんとかしてほしいのか、と一瞬だけ疑ったがそんなことは考えなかったふりをしてフォークを置いた皿をずいと残念なイケメンに差し出した。
「お前、そこはあーんだろ。ま、いいや。」
「残念なイケメン、本当キモイな。いいよ、あーんしてやるよ。何も乗せてないフォークをちょっと深くまであーんしてやるよ。」
「いい、やめろ。・・・うん、うまい。初めて来たけど、正解だったな。」
「初めて?ここの常連の間違いじゃないの。だって、ほら、残念なイケメンが恋人面してあそこの席に座っているのが目に見えるよ。」
「うるせえ、そろそろお前の中の俺のイメージを改めなきゃいけねえな。」
ずいとケーキの乗った皿をこちらに戻しながら、残念なイケメンはちょっと怒ったように言った。けれど、口元も目元も怒っているわけじゃないと見ればわかるような表情をしている。残念なイケメンが本気で怒ることなんてあるのだろうか。
「それにしても、あんなチョコのお返しにこんな高そうなお店のケーキを好きなだけ食わせてくれるなんて・・残念なイケメンは、相当暇なのか、相当モテないかのどっちかだね。」
「どっちもだいたい同じ意味だということに気付け。あんなのって、お前、あれ手作りだろ?どんなに高いケーキ奢ったって三倍には到底届かないけどさ。一応、気持ちだけでも、な。」
「・・・なんじゃそりゃ。」
こういうこと、平気で言えるからチャライとか思われるんだ。もう、何度も思ったことを心の中でだけ呟いて私はケーキを食べる作業に戻る。
「けど、本当にカップルばっかだな。これは、ちょっと予想外だったわ。」
「そりゃあ、今日はホワイトデーですから。」
「そうだな。」
モンブランの巻いてある部分をフォークで掬い取りながら、ご主人さまも今頃どこかで彼女さんとこうしてお茶と言う名のデートをしているんだろうか、ご主人さまのことだからもっと高くて高級そうなお店を知っているんだろうな、なんて思う。別にご主人さまとデートしたいわけでも、高い店に行きたいわけでもない。モンブランの頂上にある栗を口に入れながら、目の前でお淑やかではないのにどこか優雅な仕草でコーヒーを飲む残念なイケメンを見つめた。
私はいったいどこにいるんだろう、なんとも言えない不安に駆られたような気になって、慌ててミルクティーで飲み込んだ。
「お前がきてから、あいつ変わったよ。前よりも、なんつーか・・明るくなった。笑うようになったし、楽しそうだ。」
「・・・なに、急に。」
「いやさ、なんつーか。・・・なんつーの。」
言葉を捜しているのか、残念なイケメンは焦点の定まっていない目で豪華な椅子を見つめていた。アヒルのように尖った唇が、次の言葉を発するのを黙って待っている。モンブランは、栗の味がした。
「前よりも、人間らしくなった・・つうか、」
「それは、彼女さんのおかげじゃん。人は本気の恋をすると変わるっていうし・・・そういうことじゃん?」
何気なく言った言葉に、残念なイケメンはまるでハンマーで殴られたか、すぐ後ろにゴジラでもいるかのような顔をした。私はびっくりして思わず一瞬後ろを振り向いてゴジラが科学特捜隊と戦っていないかと目を凝らした。何も見つけられずに顔を正面に向けたときに見えた残念なイケメンの悲しそうな傷ついたようなそれでいてまるで怒り出しそうな表情に突然、自分が何か言ってはいけない言葉を口にしたようなどうしようもない気持ちにさせられた。
私はごくんと咀嚼していたモンブランを飲み込んでじっと残念なイケメンを見ていた。何かを言ってほしいわけでもないけれどそうすること以外になにも見つからなかった。
「なあ、ペットってさ・・・あー・・やっぱいいわ。なんでもない。食い終わったなら、次の店行くぞ。」
「・・・次の、店?今日はここにずっといるんじゃないの?」
「まさか、何言ってんだよ。これから、俺好みのケーキ屋が見つかるまで梯子するに決まってんだろ。まだまだ、ホワイトデーはこれからだぜ!」
「マジかよ、残念なイケメンはホワイトデーの意味を履き違えてるよ!!っていうか、それこの混雑時にすることじゃないでしょ。たぶん、今日はどこのケーキ屋もいつも以上に混んでるよ!!」
抗議するように、最後の一口を口に入れた後のフォークをブンブンと顔の前で振ってみせると残念なイケメンはうるせえ、うるせえ、言いながらまだ手をつけていないシュークリームをばくんと一口で半分食べてしまった。
「うん、うめえ!」「ああああ!!おま、お前、なんてことを!!」
嫌がらせにしても酷すぎる。ショックのあまりあんぐりと口を開けていると残念なイケメンは楽しそうにわざとらしくもぐもぐと大げさに口を動かして見せる。腹が立つ。
「ほらあ、早く食えよ。よし、決めた。ペットちゃん、食うの遅いから今度から俺も手伝ってやるよ。」
「いいよ、やめろよ。今すぐ食べるから!!」
喜々として伸びてくる長い手からシュークリームを守ることに必死になっていた私は、すっかりさっきのことを忘れてしまっていた。
なら、私はどうすれば良かったのか。モンブランを見るたびに私はそんな気持ちだけが胸を燻ることに耐えなくてはならなかった。
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