二月 閏年
四年に一度、なぜ特別なことは全て四年に一度なのだろうか。オリンピックにそう、閏年も。
「閏年ってさ、何か得した気分になるよな。」
「まあ、少なくとも損した気分にはならないけど。」
カレンダーをめくりながら、残念なイケメンが大学芋を一つ口に入れた。昨年、なぜか多量にもらったさつま芋で作り置きをしていた芋メニューのもう残り僅かな余り物もとうとう残念なイケメンに食い尽くされてしまった。ご主人さまにお土産でもらった有名だという飴屋の水あめは、この大学芋のせいであっという間に空になってしまった。そもそも、あの芋を揚げるという作業は跳ねる油が恐怖でしかなかったし、水あめと醤油の組み合わせの匂いは私のあまり好きな匂いではなかった。
「お前なあ、一年が余分に一日あるんだぜ。二十四時間、自由時間をもらったみたいだろうが、なあ、ペット?」
「けど、二十九日も平日なら、仕事もあるし。過ごしてる間は普通の日と何も違わないじゃん。」
「そういうことじゃないだろ、わかってないなあ。ペットちゃんは。」
大人な顔をして、残念なイケメンが笑う。何だよ、甘いもの大好きなガキのくせに。思ったけど、こう見えて残念なイケメンはご主人さまよりも年上なので反論の意味がない。決してご主人さまが老けているわけでも、残念なイケメンが童顔というわけでもない。たぶん雰囲気だろう。大人びた落ち着いた雰囲気のご主人さまが、子どものように騒ぐ残念なイケメンの食べ終わった皿を流しにさげながら、私に向かって肩を竦めた。口元には、いつものように微笑みが浮かんでいる。
「ご主人さまは?」
「閏年?」
「うん、好き?」
「好き?閏年を?」
私の問いかけに、ご主人さまは考えたこともないなあ、と少しだけ首を傾げて洗い終わった食器を白い布巾で拭き始めた。私はこびりついてしまった大学芋の水あめを取ろうと、スポンジを強めに擦って皿を洗った。
「嫌い・・かな。」
「え、嫌いなんですか?」
「うん。閏年は好きじゃない。」
全ての食器を洗い終わった後に、ご主人さまがふと思い出したように困ったように答えた。その答えに私はびっくりして危うく片付けようと持っていたタッパーを落としてしまいそうになった。まるで漫画みたいだな、と思って笑ってしまうと目の前にいたご主人さまは不思議そうな顔をして私を見るから。
「何で嫌いなんですか?何か理由が?」
「なんで?」
「いや、別に。ただ、思っただけ。」
「そう。すごくビックリしてたみたいだけど?」
おかしそうに笑う切れ長の目から逃げようと、流しの下にタッパーをしまうためにしゃがんだ。上から聞こえてきたご主人さまの言葉に心の中でだけ答える。
そりゃあ、びっくりするに決まっている。今までご主人さまが何かを拒絶するような言葉をあまり聞いたことがなかったんだから。
何か理由があるのだろうか。そう考えて私は、はたと気づいた。何をそんなに動揺するのだろう、ご主人さまだって人間なのだから嫌いな物だってあるし、生理的に受け付けないことだってあるのに。
ご主人さまの返事を聞いてドクドクと変に脈打つ心臓が、痛い。
「俺が閏年嫌いだと、変?・・あ、もしかして閏年が好きなの?」
中々立ち上がらない私を不思議に思ったのか、縦に長い身体を少し屈めて、覗き込むようにしてくるご主人さまから目を逸らして私はただ必死に答えを探す。
「いや、別に。とくに好きでも嫌いでもない。」
どうしたらいい。どうしたのだろう。心の中が混乱している。ご主人さまが閏年を嫌いだからって何がどうなるわけでもないのに。覗き込んできた優しい瞳を、ほんの少し見上げた。いつもと同じ、優しいご主人さまがいるだけだ。
「ふーん、なんか変なの。」
くすくすと楽しそうに笑う低い声が頭の上から聞こえて横を向けば、さっきまでご主人さまの顔が覗きこんでいた場所には、灰色のズボンを穿いた足があるだけだった。私はよくわからないけれど、何かに安心して溜め息を吐いて立ち上がった。
「変じゃない。変じゃないもん。」
わざとらしく唇を尖らせてたこのようにする。それを見て、ご主人さまがいつもの少し高い笑い声をあげて笑うから、カレンダーを見ていた残念なイケメンが驚いたようにこっちを見た。
「おいおい、何、二人で楽しそうにしてんだよ。俺も混ぜろって。」
「楽しそうにって、ただ口をたこみたいにしただけだよ。」
「あははっ、似てる!!」
また唇を尖らせると、ご主人さまはおかしそうにゲラゲラと笑い、残念なイケメンと私は真顔でそれを見ていた。
「え、マジでそれだけで笑ってんの?」
「そもそも、何に似ているとそんなにおかしいのか。」
時々、ご主人さまは理解不能だ。相変わらず笑い続けるご主人さまを放って私はコーヒーを淹れることにした。
コーヒーにミルクを二つと砂糖を三つどぼんしたご主人さまを見ていると、残念なイケメンは、それでさとさきほどの話を続けるようだった。
「閏秒ってのがあんだってさ。」
ごくん、ごくん、隣りでご主人さまがカフェオレと呼ぶほうがしっくりくるコーヒーをゆっくりと飲んだ。コーヒーを飲むために伏せられていた瞼が少し震えて、横にいる残念なイケメンを見た。
「ふーん、閏秒?」
私はといえば、正面に座る残念なイケメンのコーヒーを見つめてそれを聞き流していた。なぜ、あんなに甘いのが大好きなくせにコーヒーはブラックなんだ。
まるでそれが世界的な命題であるかのように私の頭は考える。
「そう、どれくらいのスパンだったかは忘れたけど、ある瞬間にその時間は一分が六十一秒になるんだよ。」
「へえ、六十一秒か。」
私のコーヒーはミルクが入っていないけれど、砂糖はご主人さまと同じくらい入っている。コーヒーのポーションミルクはどうにも苦手で私は一人で飲んでいるときは、コーヒーは牛乳で作る派だ。
「なんかおもしろいだろ。六十一秒の世界って。」
「うん、そうかも。」
残念なイケメンは楽しそうにまるで先生に褒められた小学生のように得意そうな顔でブラックコーヒーを口に運んだ。
どうしてあんなに甘いのが好きなのに残念なイケメンのコーヒーはブラックなのだろうか。私の頭は考察する。
「・・・ほら、ペットもなんか言えよ。」
「じゃあ、なんで閏秒は閏秒なのに、二十九日は閏年なの?」
「・・・は?え?何の話?」
机に置かれた茶色のコーヒーを見つめたまま、尋ねると残念なイケメンはちょっと間抜けな顔をして私を見て、ご主人さまはちょっと興味を持ったような表情をして私を見た。
「二十九日。二十九日なんだから、閏日でしょ。なのに、みんなはなんで閏年って言うんだろう。閏日って言えばいいのに。」
「そういえば、そうだ。なんでだろう。」
「そもそも、閏月っていうのが昔はあったっていうのは、歴史の教科書かなんかで読んだ気がするな。一年が十三ヶ月だった、っていうの。」
「あぁ、やったかも。」
カップを置いて何かを思い出そうとしているのか残念なイケメンは何度か髪をくしゃりと掴んだ。私が言いたかったことが正しく伝わっていないが、この際それはいいことにした。懐かしそうに目を細めるご主人さまが、目に入る。
「・・・その考え方だと、閏年ってさ・・・一年が余分ってことになるね。」
私はそう言ってちょっとだけ苦い色をしたコーヒーを飲んで顔を顰めた。思っていたよりもコーヒーは熱かった。猫舌の私としては非常にいただけない。
「六十一秒の閏秒があって、二十九日の閏日があって、十三ヶ月の閏月。じゃあ、閏年はさ、どこから数えて一年余分なんだろう。」
私はそう口にして、そういえばこういうことを考えるのがとても好きだったことを思い出した。まるで言葉遊びのように意味はないけれど不思議な問いかけをいつも考えては両親を呆れさせていた。もっと別な普通のことを考えなさい。と言われていつからか考えることすらをやめていた。
「・・確かにな、そう考えると不思議つうか、なんか・・・」
しばらく私とご主人さまと残念なイケメンは何も言わずに考えるように、各々がどこか一点をじっと見つめて動かなかった。ストーブのふごごごという小さな音が部屋を暖めようと必死になっていた。
「けど、本当にあったらおもしろいかもね。」
「何が?閏年?」
「そう。一年、特に何も変わらないけど、いつもと違う十二ヶ月があったらさ。」
良いよね、ご主人さまがいつものように優しく、いつもよりも少し寂しそうに目を細めて笑うのを私はぼんやりと見つめていた。いつもと違う十二ヶ月。特に何も変わらないけど、余分な一年。それは、今だ。そうだ、今年が私の閏年なんだ。頭の中でシナプスがバチバチと雷でも起こしそうなほど弾けて、勢いよく飛び交っている。何年に一度なのかはわからないけれど、私は確かに閏年なのだ。なぜだかわからないけれど私は確信した。
「けどさ、閏秒とか閏日とかと同じなら、その一年も平凡なんだろうな。いつもとあんま違わないまま、今年は閏年だなあ、とか話すくらいにして・・フツーだな。」
「はは、そりゃあ、そうだよ。むしろ違ったら大変じゃない。閏年と閏日は全ての仕事がお休みとかになったら、国の機能が麻痺しちゃう。」
「あー・・けど、それ楽しそうだな。一年はキツイけど、一日くらいなら大丈夫かもしれない。キャンプ!キャンプみたいじゃん?」
楽しそうに、なのにちょっと残念そうに話すご主人さまと残念なイケメンを見つめながら、今まで活発になっていたシナプスが次々と枯れていくかのように心の中がざわざわと冷たくなるのを感じていた。
閏年はいつもと違う一年、つまり十二ヶ月のことだ。私はめくられたばかりのカレンダーを見つめた。二月、確かにそう書かれている数字を頭の中でだけで何度も繰り返し読む。ゆっくりとその数字が脳内に溶けていく、染みていく。
「閏月もギリギリいけるな。俺、結構逞しいし。」
「はいはい、そうだね。奏士は逞しいもんなあ。」
「何だよ、その言い方!!」
私がいない、閏年の終わったあとの二人の会話をじっと聞いていると、少しだけ泣きたいような叫びたいような気がした。これが普通の日なのだ。これから、きっと、戻るだけ。
「・・・あと、三ヶ月・・・」
小さく誰にも聞こえないように口に出して自分自身に言い聞かせた。閏年が終わった世界にはいったいどんな普通が待っているんだろう。
「おい、ペット。なにか甘いお菓子とかねえの?」
「今の今まで大学芋を食ってたのに?あぁ、ほら、角砂糖があるから、これ食べるといいいから、甘いから。」
「何言ってんだ、ちゃんとした甘いお菓子を出せ!!」
「ほら、ブラックコーヒーに角砂糖をいくつかどぼんすれば、甘くなる。」
「話聞け!!甘い、おかし!!お・か・し・だ!!」
「おいしい、角砂糖、七八個。ほれ、おかし。」
「おお、本当だ。ははっ、すごーい。」
「すごくねえよ!!あ、バカ、やめろ!!こら、ペット!!葉!!」
ぽちゃん、ぽちゃん、可愛い音をさせて残念なイケメンのブラックコーヒーにご主人さまと私はいくつかの角砂糖を落とした。
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