一月 シャンプー

 わしゃわしゃ、がしゃがしゃ、何ともいえない音をさせてご主人さまが、私の髪を洗っている。私の頭は今、ご主人さまの手に預けている。ペットの髪は、飼い主が洗うよね、というご主人さまの変態丸出しの提案により、この家に飼われるようになってからずっと私はお風呂をご主人さまとご一緒している。私が体を洗い終わるとご主人さまが入ってきて、私の髪を洗う。普通のペットと何も変わらない。飼い主に身体を洗われるペットだ。

 このまま、私の全てをご主人さまに預けてしまいたくなる。本当のペットのように、物事の何もかもをこの人に従って生きていけば、どんなに楽だろうか。お手とお座りのように教え込まれた芸だけをしていればいい人生。それでも、この人は私を飼ってくれるだろうか。

「・・・気持ちいい?」

「はい、とっても。ご主人さまは、美容師さんみたいにシャンプーが上手です。」

「本当?言われたことないな。」

「そうですか?」

「うん。・・・・まぁ、他人の髪なんて洗ったことないんだけど。」

「腹立つな。」

「はははっ、かゆいとこない?」

シャンプーハットをつけているから、目に泡が入ることはない。これももちろんご主人さまが買ってくれたものだ。シャンプーハットなんてもうずいぶんと前から使っていなかったが、いざ着けるとこれが意外に優れものだということがわかる。

目の前でにこにこと笑うご主人さまにいいえ、と答えると流すよ、とシャワーがやってくる。いくらシャンプーハットがあるとは言えやはりシャワーのときは下を向きたい。

「熱いときは言ってね。」

「はーい。」

イエスかノーの最終選択さえすれば、あとは何も決めなくていい。そんな生活はきっと楽でつまらないのかもしれない。ぼんやりと水の流れていくのを感じながら、目に入ったご主人さまの脚を見つめた。大きい男の人の足で、だけど細くて白い足。長さと大きさでは敵わないけど、きっと太さなら私の方が太い足。それなりに筋肉もあって腕も足もがっしりしている残念なイケメンと違って、ご主人さまは手も身体の線も私よりずっと細い。

「・・・つぶれ、そ。」

私の全てなんて預けたら、支えきれずに潰れてしまいそうだ。私の重みで潰れてしまう、それは嫌だな、と思った。

「何、考えてるの?」

ばしゃばしゃと、全てをかき消そうとするかのような水音の隙間から、ご主人さまの低い声が聞こえた気がして耳を澄ます。

「・・・え?」

「今、何か言ってたでしょ。なんて言ったの?」

「あぁ、いえ。別に、ちょっと一人ごとです。」

髪を流している大きな手が邪魔で、上を向けないから今ご主人さまがどんな顔をしているのか、見えない。体を浸している湯船の手すりに手と顔を乗せているから、肩と背中の上の方が少し寒い。

 私は、何も考えていなかった。私は、もうずっと空っぽだった。いまさら、何かが入るわけもないから、きっとこれからもずっとそうなのだ。

「・・・・髪、伸びてきたね。」

「そうですね、そろそろ切りたいくらい邪魔、」

「もう少し、伸ばして。」

止まったシャワーに手がどいたから、私は顔を上げた。そこには、いつもと同じように優しく柔らかく笑うご主人さまがいた。

「ご主人さまのお望みとあれば、」

そう答えれば、ご主人さまは嬉しそうに満足そうに笑って私の頭から優しくシャンプーハットを取った。決してきつくはなかったけれどやはり水が落ちないように締め付けられてはいたらしく、頭からぼーっと血が流れて巡る感覚がする。

「はい、綺麗になった。タオル、いる?」

「うう、いる。」

髪の中からチャンスを窺っていたように、水が滴ってくる。泡じゃないとわかっていても、ちょっと不安になる。手渡されたタオルで顔を拭いてそのまま、身体を湯船に沈める。冷たく冷えていた肩や背中にじわっと熱が広がる。

お風呂は好きだ。体を洗うのも、髪を洗うのも、そして何よりこうして湯船にじっくりと浸るのが好きだ。

「ふあ、いい湯だ。」

肩までお湯に浸かり、それから洗い場で体を洗うご主人さまの背中を見つめた。今では見慣れた大きくて広い背中。家族以外では初めて見た、男の人の裸の背中。アレルギーとにきび肌であちこちに傷や赤い湿疹がある私の汚い肌とは違う、白くてすべすべとした綺麗な肌をした背中。父よりも細くけれど逞しい背中。

あの背中に私は背負われている。あそこは、私の場所だ。

「・・・そんな見つめて、俺の背中好きなの?」

首を洗いながら、こちらを向いたご主人さまは困ったようにおかしそうに笑って尋ねてくる。はて、とその質問に首を傾げる。それから、またじっとご主人さまの背中を見つめる。

 確かに筋肉がある残念なイケメンと比べると細いご主人さまの背中ではあるが、それでもお肉しかない私と比べれば、筋肉はあるだろうしムニッと脂肪がついている私と比べると美しい肉のつき方をしている、ように見えなくもない。

 見つめて考える。綺麗な背中。美しい背中。理想的な背中。ご主人さまの、背中。

「・・うん、好き、かな・・・」

わしゃわしゃ、ご主人さまの手が一瞬ピタリと止まって、いつもの高い笑い声がお風呂に反響して、私がビックリしている間にご主人さまはまた、洗うのを再開した。

「本当?なんか嬉しいな。ありがとう。」

「どういたしまして?」

背中を好きと言ったくらいで喜んでくれるなら、これからご主人さまの好きなところを見つけたら教えてあげようかな。なんて思ったけどそれでまた変態ぶりに拍車が掛かったら困るのは私なのでやめようと決めた。

 私は、あの背中が好きらしい。また、黙って背中を見つめていると、ご主人さまがシャワーを頭にかけて、ふわふわの髪がべったりと頭に張り付いた。私は頭に乗せていたタオルを風呂の外で絞り、私を洗っていたシャンプーの匂いを嗅ぎながら体を拭いて外に出た。ご主人さまは、私のシャンプーをするために入ってきて私はご主人さまのシャンプーが始まると出る。ごくごく普通の流れでそうなった。

「・・・いい湯だった。」

呟いてバスタオルを頭からかぶり、そのままリビングに向かった。ご主人さまが出てくるまでにパジャマを着ておいてドライヤーはブラッシングとセットでやってもらうのだ。

 パジャマの上を頭から被り、不意にご主人さまの背中を思い出した。細くて白い綺麗な背中。あの背中に抱きついたらどうなるだろうか、そう思った。

 私は、どうやらあの背中を相当好いているようだ。


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