十一月 冬眠
きっと、たぶん、いや、絶対に人間には冬眠ホルモンというホルモンがあるのではないか、と私は思っている。ずいぶんと前から、確か幼稚園くらいから。
私は冬になると一年間、特に暑くて眠れない夏の睡眠をまとめて集めたように睡眠時間が増える。もう、一日のほとんどを寝るくらいにとにかく眠くてたまらなくなる。
朝、起きてご主人さまの朝ごはんを作り、私はまたぬくぬくと温もりの残るキングサイズのベッド、布団の中に戻った。夏や秋なら、一度起きてしまえばあとは夜まで眠くはならないのに冬になって寒くなると毎年こうだった。どんなに遅く、例えば昼過ぎに起きたとしても一時間と経たずに睡魔がやってくる。そのため、冬の間は朝寝だけではなく昼寝、そして夕寝もする。ほとんど一日中が睡眠時間だ。
「あれ、また寝てる。」
ぬくぬくと温かい布団の中で私はぼんやりとご主人さまの声を聞いた気がした。
夢を見る。浅い眠りの中で私は曖昧な夢をいくつも見る。昔のことや今のこと、それから何もかもがおかしい変な夢。夢の中はだいたいが温かくて優しくて心地よい。ずっとここにいたいと、そう思わせてしまう。目なんてもう開かなくても、いい。そう感じてしまう。
「・・・?」
何かに呼ばれた気がして振り向くと、そこにはマスターが立っていた。私の口はごくごく自然にマスターをママと呼んだ。私の記憶は上書きされるみたいに、ママ=マスターと認識する。それにしても、ずいぶんと老けたママだな。
「赤ずきんや、これをおばあさんの家まで届けておくれ。」
「はい、ママ。でも、おばあさんの家はどこだったかしら。」
「ほら、これが地図だ。ここがおばあさんの家だよ。それから、森には怖い狼がいるからね。決して寄り道なんてしてはいけないよ。」
「はーい。わかったわ。私、寄り道なんてしないでおばあさんの家に、このお見舞いのチョコレートケーキとビーフシチューを届けるわ。」
返事をして、私はてくてくと歩き始める。空を鳥が飛んでいてだけど、青空の向こうには今にもごろごろと雷を落としそうなくらい黒い色をした雲が迫ってきていた。その雲に染められるように私の心もなんだか暗くなってくる。草が周りを囲むように生えている二次元的な道を歩く私の足取りは重い。そもそも、私一人で行かせるなんてどういうことなんだろう。だって、狼が出るんでしょ。子どもなんてぺロリと食べられちゃうに決まってる。それとも、もしかしてママは狼と結託して私のことをこの世から消そうとしているとか。
「・・・・わお、ってことは寄り道をするな、というのは、しろという・・ふり?」
赤ずきんである私はそう呟くと地図の森の中にある花畑の方に足を進めることにした。ご丁寧にここは特に大事というように赤い文字で『注意!!』と書いてある。なるほど、ここに行けばいいということですね。と、一人で納得して私はてくてくとお見舞いの品を落とさないように歩く。
「あ、ここか・・・あら、ちょっと・・想像してた花畑と違う・・・」
着いたようではあるが、間違いなく地図の花畑に着いたはずではあるが、ちょっと私の知っている花畑とは違う。絶対違う。なんか、蔦がにょろにょろと危うく蠢いているし、花も家の近くで見るのより倍以上大きいし、牙が生えている。見るからに危険だ。見ただけで危険だ。
「・・・道を間違えた?」
うねうねと見るからにアウトな姿をした花畑から逃げるために足を一歩後ろに踏み出す。けれど、そこにはお約束のように小枝があって、私の全体重を受け止めたその枝はぺきんとわざとらしく大きな音をたてて折れた。オーマイガッ、うねうねと意味不明なダンスをしていた蔦はピタリと一瞬、不気味なほど静かになり次の瞬間には全ての蔦が私を目掛けてにょろにょろと伸びてくる。
「ですよねー、だと思いました。ああああああぁぁぁぁぁっ」
逃げようと後ろを向き、二歩ほど歩くとすぎに足首にしゅるりと蔦が巻きついてそのまま私はずるずると花畑に咲いている花を撒き散らしながら、一番大きな花まで一直線である。お見舞いの品はどうやら入り口付近で落としたらしく私は空いた両手で何か掴まれそうなものを探した。
「いて、いてて、なんでここ、棘のある花ばっか、いて、いててっ」
しかし、体や手に触れるのは牙なのか棘なのかわからないような鋭い何かばかりで皮膚が切れたのか小さな切り傷特有のぴりぴりとした痛みが体のあちこちから伝わってくる。ずるずると引きずられていく先を見れば、だんだんと近づいてくる大きな花。体に力を入れて抵抗しようとしたそのとき、突然、見えていた花が逆さまになった。それから、ぶわーっと頭に血が溜まる感覚に、服がずきんが捲れる感触。
逆さまに私が吊るされている。これは、まさか、世に言う。
「触手プレイ・・・だと!?」
にゅるにゅると下には妖しく蠢くたくさんの触手まがいの蔦。片足を縛られ、上下逆さまに吊るされている赤ずきんとか、激裏な匂いしかしない。どうしよう、ちょっと色んな意味でピンチかも。ママの言うとおり寄り道なんてしないで真っ直ぐにおばあさん家に行っていれば。でも、あれはママの寄り道をしろというふりだったわけだから、なら、これはママの計画通り?だとしたら、どこかで私が花に喰われるのを見ている人がいるのでは?
「やだあ!誰かが見てる前で触手はやだーっ!助けてええ!!」
じたばたと体を動かして、あたりに向かって大声を出してみる。だけど人が助けにくる気配は全くなくて、むしろ暴れたせいで一本触手が追加された。にゅるにゅると気持ちの悪い動きで体中を這いずった挙句、腕と体を縛るように拘束される。牙を剥いた花が大きく口をぱっくりと開いた。あれ、これから速攻で食べられるタイプだった?粘々とした唾液のような液体が花の奥に見える。あれ、絶対消化液だ。あれ、中に入ったら即効で形なくなるタイプだ。私は、そんなことを思いながらぐっと目を閉じた。もうだめだ。さようなら、おばあさん。大好きなチョコレートケーキを届けてあげられなくてごめんね。心の中でそう言って花の咽返るような甘い匂いがした。そのまま、消化液にどっぷりとダイブするのを覚悟していたけれど、ふわりと体が何かに包まれ浮いた感覚と鼻いっぱいに吸い込んだのは、獣の匂いに変わった。
「赤ずきんちゃんの触手プレイが始まるなら見ていようかと思ったけど。」
「・・・え?」
ふわふわの毛とその奥にある筋肉から、体を伝わってくる低い声に私はそっと目を開けた。優しい切れ長の目と柔らかく微笑む牙の生えた口が見えた。
「大丈夫?赤ずきんちゃん。どっかに触手、入れられてない?」
「・・・変態さんが、現れた。」
「俺は狼だ。じゃぁ、まずは逃げよっか。」
おおかみさんは、そう言うとにゅるにゅると伸びてくる蔦をぴょんぴょんと軽くかわして私を抱えたまま走る。さすがは、狼を名乗ることはあってあっという間に私の落としたお見舞いの品が落ちている入り口まできてしまった。そうして、私を抱えていない方の手で籠を持つと花が見えないところまで走って止まった。
「すごい速さで、目が回る。」
「ここまでくれば、大丈夫だよ。あの蔦も、あの花も、あの花畑の範囲でしか動けないから。」
「ありがとうございます、おおかみさん。」
「いいの、いいの。俺も久しぶりに楽しかったし。」
未だくらくらとする頭を動かしておおかみさんの方を見ると、頭の上で茶色の耳がふわふわと揺れていた。
ゆっくりと地面に降ろされ、むくむくとした動物の手のような形をした大きな手が、私の頭のずきんの紐を丁寧に結びなおした。
「あ、ど、どうも。すいません、おおかみさん。」
ふわり、ふさり、おおかみさんの背中で耳と同じ茶色をした尻尾が揺れている。長くて綺麗な尻尾を見ながらお礼を言うと、私の目の高さまでかがんでいたおおかみさんがニコリと笑った。
「気をつけてね。赤ずきんちゃん。」
そう言うと、おおかみさんは目にも見えない速さでどこかに消えてしまった。ひょっとしたら、またあの花畑に行って蔦に絡まれている人を見ているのかもしれない。
「・・・やっぱり、変態おおかみさんだったわけか。」
呟いて私はおばあさんの家に行くためにまた歩き出した。チョコレートケーキはまだしも、ビーフシチューはだいぶ酷いことになっていたけれど、決して食べられない状態ではなかったのでそのまま持っていくことにした。
ようやく見慣れた赤い屋根のおばあさんの家に着くともう夕方近くになっていて、地図の見辛さを心の底から恨んだ。やはりあの蔦で私を消してしまうつもりだったのだろう、あの花畑に向かう道以外は全て大まかすぎる地図だった。おのれ、ママめ。
「おばあさん、赤ずきんです。具合は大丈夫ですか?」
「おー、赤ずきん。よく来たな、入いれ。入れ。」
「・・・おばあさん、低い声が残念で体が元気だね。」
「動揺のあまり、文章がおかしくなっているぞ。赤ずきん。」
どう見ても、残念なイケメンにしか見えないおばあさんにお見舞いの品を渡すと、おばあさんは嬉しそうに笑いながら、お前のお母さんのチョコレートケーキはうまいんだよ、とさっそく一つ食べ始めた。
「残念なおばあさん、どう見てもうちのママより若いし、絶対にお前元気だろって思うんだけど。」
「それに関しては俺も同意見だ。これは完全に配役ミスだ。せいぜい、俺は猟師が妥当だと思う。」
「何それ、駄洒落?おもしろくないよ。」
「うるせえ、ちげーよ。」
持ってきたチョコレートケーキをお皿に乗せてお茶にしようと椅子に座る。ほかほかと湯気を出す温かそうなお茶。
さて、食べようか。とフォークを持ったそのとき。家の扉がバーンと勢いよく開いてまるでアーミーな女の人が入ってきた。まさか、彼女さんが猟師ですか。
「誰だ、アンタ。」
「狼だな。・・なんというやつ、おばあさんだけでは飽き足らず、こんな小さな子どもを食べようとするなんて。」
「は?え?何、なんなの?」
「あの、彼女さん、違うんです。これは、」
「彼女?なに?この人、猟師だろ?」
「許すまじ!狼!!」
場が混乱してきた。そう思って何とかしようと一歩を踏み出したとき、ばーんと大きな音がして家と空気が揺れて震えた。そうして残念なおばあさんがばたりと床に倒れた。びっくりしたような顔をした残念なおばあさんの体のまわりにじわじわと赤い池ができる。体の底が冷たく冷えていく。
「お、ばあ、さん?おばあさん、」
「・・・逃げろ、赤ずき、ん・・・お前、は、生き・・ろ、」
「何言ってんの。残念なおばあさん、早く手当てを、」
抱き起こそうとした手には力が入らず、声が震えてしまう。手が膝が、温かい液体でぬるぬると濡れていく。赤く、染まっていく。コツリ、頭に何かが当たって私の意識がそちらを向く。
猟師さんが、私に銃をあてて、いた。
「さあ、死んでもらいます。赤ずきんちゃん。」
にこり大きな目が、私を見据えたままピンク色をした厚い唇だけが弧を描く。美しい女性が、笑っている。
「逃げろ、赤ずきんっ・・・・今度は、お前が、守れ・・・あのDVDをっ」
「何?DVD?」
「さようなら、」
どくんどくん、心臓が苦しいくらいに脈を打って私は声も出せずにただ、猟師さんが私を撃つのを、
「させませんよ、」
低く細い声がして、茶色い塊が猟師さんと一緒に部屋の奥にごろごろと転がっていく。私はそれを見て、それからまだ何か言いたそうな残念なおばあさんに向き直る。おばあさんは優しく顔をくしゃくしゃに崩して笑うと、ベッドの下を示した。
「・・あの、DVDを・・守れ。・・行け、赤ずきん。」
「嫌だ、おばあさんを置いてなんて行けない!!」
「おのれ、おおかみ!!なぜ、赤ずきんを守る!!」
後ろから聞こえてきた声にそちらを見ると、猟師さんとおおかみさんが向かいあって睨みあっていた。おおかみさんの手にはさっきは気づかなかった大きくて鋭い爪が生えていた。
「ごめんね、」「 」
銃を構えた猟師さんが何かを言おうと口を開いたときには、もうおおかみさんの爪がその身体を深く切り裂いていた。猟師さんは、悲しそうに切なそうにだけど嬉しそうな顔をして、まるで涙のように赤い血を飛ばして倒れた。
「・・・・猟師、さん?」
長い髪を床に散らし、スタイルのいい肢体を床に投げ出し、アーミーな美しい女の人は目を閉じていた。おおかみさんは、血のついた手を拭うこともしないで、ゆっくりと私の目の前に座った。そしてそれが当たり前のことのように、私に優しく笑いかけた。
「さあ、行くよ。赤ずきんちゃん。もうここにはいられない。」
「でも、でも、おばあさんが、私はここにいたい。私は、ここに、」
「わかっているはずだ、君は。ここには、ここは君のいるべき場所ではない。君はここにいてはいけない。赤ずきんちゃん、さあ、行くんだ。」
わかっている。そんなことはわかっている。この心地のいい場所にいつまでもいられない。わかっている。そんなことはわかっていた。この場所にきたときからずっと、ずっと。
「わかっ、て・・る。」
ポロポロと私の頬を涙が流れていく。その涙をおおかみさんの手が優しく柔らかく拭う。
「ごめんね、赤ずきんちゃん。俺が本当に悪い狼で、君を食べてあげられたら、良かったのに。ぺろりと飲み込んでしまえたら、そんなに苦しませないのに。全てを終わらせることができるのに・・・ごめんね、俺は、君を守ることしかできない。ごめん。」
おおかみさんは、そう言って私をぎゅっと抱きしめた。ごめんね、と囁くように言いながら、おおかみさんは、何度もそう言った。
「・・・違う、おおかみさんは、悪くない・・」
わかっている。何もかもわかっている。私は、最初から狼に食べられようとしていたの。この世界から心を消すために、私は自分から狼に食べられようとした。私は、あなたを、
「泣かないで、泣かないで、」
優しい声がそう言って、私の頭を優しく撫でる。何度も撫でる。私は、あなたのことを、
意識がぷつんと唐突に切れて、目を開けた。泣いていたのか、瞼が涙でくっ付いて開きにくい。吸い込んだ匂いは、嗅ぎなれたご主人さまの香水と汗の混ざった匂いだと気づいた途端になぜだか涙がまた、もりもりと溢れてくる。
「ご主人さま、」
涙は目から出た途端にぎゅうっと抱きしめられたご主人さまの服に吸収されていく。小さく呟けば、すぐ上にあったご主人さまの唇が頭にあたって声を振動として伝える。
「大丈夫。」
大きな優しい手が、温かくゆっくりと何度も私の頭の後ろを撫でている。背中に回った手がぽんぽんとまるで子どもをあやすようにリズムを刻む。私はご主人さまの胸に顔を埋めたまま、ただ何も言えずに涙をご主人さまの服に染みこませていく。何が悲しいのか、何がこんなに辛いのかわからないまま。
「大丈夫、俺がいるから。」
ただご主人さまの背中にまるでしがみ付くようにしてご主人さまに縋るようにして。私は何も考えられないくらいに朦朧としたまま、ただ息をしていた。
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