十月 誕生日

 朝、私はご主人さまの携帯の無機質な呼び出し音で目が覚めた。するりと布団からご主人さまが抜け出したらしく暖かかい空気の中にひんやりとした何かが入ってきた。十月にしては冷たい空気が私の眠気にまとわりつく。

「・・・・はい。あぁ、光江さん。おはようございます。・・・はい、大丈夫ですよ。・・・はい、・・・はい。」

みつえさん。ぼんやりとした頭でもその人の正体くらいはわかるつもりだ。私は布団の中で文字通り息を殺して、体中を固くして、どこからも音も気配も出さないように、した。

「え、今日ですか?・・・あ、いえ。そういうわけではないのですが。・・はい。」

一瞬、ご主人さまが私の方を見たような気がした。けれど、それを確認しようにも体を動かして何か音を出してしまうことが、怖い。

「わかりました。・・・はい、ではあとで。・・はい。」

パタン、ご主人さまの携帯が閉じる音がして私はようやく体の力を抜いて息を一つ、大きく吐き出した。その音を聞いていたのか、目の前にあった、ベッドに腰掛けていたらしいご主人さまの背中が半分だけ私の方を向いた。大きな手が横を向いてそれを見ていた私の髪に触れた。優しく、乱される。

「ちょっと出かけてくることになったんだけど、起きてる?」

「起きてる、おきてる。いってらっしゃーい。」

まだ、撫で付けるように触れる手を払い、仰向けになりながら伸びをして手を振れば、ご主人さまは困ったように眉を下げていつものように優しく笑う。

「冷たいなあ。なるべく早く帰ってくるけど、一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ。何急に心配してんの。いつも一人で留守番してるじゃん。」

急に子ども扱いされた気がして腹が立つ。口を尖らせて抗議すればご主人さまはごめん、ごめん、と私のおでこにかかった前髪を長くて綺麗な指で払う。一房、二房、撫でるように払う。

「せっかくのお休みだったのに。あぁ、あと一時間くらいは寝てたかった。」

「残念だったね、せっかくのお休みだったのに、ぐえッ」

言いながら、ご主人さまはばったりと倒れて私のお腹に落ちてきた。それでもきっと調整したのだろうとわかるくらいに柔らかく、だったが。

「今日さ、俺誕生日なんだよね。・・って言っても、あと半日くらいしかないけど。」

ご主人さまの言葉に私はびっくりして思わず上に上げていた手をべチンとご主人さまの頭に落としてしまった。なんてこった。彼女さんの電話の理由はこれだったのか。

「ちょっと、何も叩くことないでしょ。痛いよ、」

「もう、十二時ですよ!!何で言ってくれなかったんですか!!」

何かお祝いしないと、そう慌てて起きようとしたけれどお腹のあたりにご主人さまが乗っているため、思うように起き上がれない。そもそも、私はあんまり腹筋が鍛えられている方ではない。ここから、ガバリと起き上がることなど私にはたぶん百回やったって無理だ。

「今からじゃ、何も準備できない。だいたいご主人さま、出かけるじゃん。」

バタバタとまるでひっくり返ったカメのようにもがく私の上で、ご主人さまはいつものように少し高い声で笑いながら、横を向いた。切れ長の目が天井から私の顎を見つめているのが感じられる。

「いいよ、何もしなくて。最初から言わないつもりだったんだから。」

急に言いたくなって言ったけど。とご主人さまの声がお腹の当たりに伝わる。もぞもぞと動くから、お腹が痒いようなくすぐったいような、身を捩りたくなる。

「何で?お誕生日、嫌い?」

「うーん、別に嫌いじゃないけど。特に好きでもない。誕生日だって言うと、プレゼント買うためにあちこち連れまわされたり、一日中ベタベタさせられたりするから。」

「ご主人さまは、どんな人生を送ってきたの。知りたいようで知りたくないわ。」

「だから、一人でいるときは自分のやりたいことをしようかと思ってたの。」

「それで一日中寝るのを思いついたわけね。」

「そういうこと、あーあ。」

眠そうな、憂鬱そうな声を出したご主人さまに手を伸ばして、ちょうど私のお腹の上にあるふわふわの髪を撫でてあげる。指に絡むようにしてくるこの感触が意外に心地よいことを最近、知った。

「何か欲しいものある?・・って言っても、ご主人さまは今日はもう帰ってこないかもしれないんだけど。」

「えー・・帰ってくる。帰ってきたいから、欲しいものねえ。」

頭を撫でていた私の手を、ご主人さまの大きな手が不意に捕まえて、遊ぶように楽しむように私の指とご主人さまの長い指を絡めたり、解いたり、焦れるように触れてみたりする。ご主人さまは時々こうして自らの手を無意識に動かしている。そんなときは大抵何かを考えていたりするときなので、今回も私の手はされるがままだ。

「・・・じゃぁ、そうだな。帰ってくるまでに考えておく。」

「それじゃあ、今日中にあげられない。」

「そっか。・・・うーん、あぁ」

いつものように優しく笑った後、ご主人さまは小さく溜め息のような声を漏らす。私の手がすっと引かれ何か優しく柔らかい弾力のある物に触れる。それが何だかを思う前に、ご主人さまの低く優しい声が告げた。

「俺が呼んだら、すぐに抱きしめられる場所にいて。」

まるで搾り出したかのように少しだけ掠れた小さな声に、私の心臓は一度、二度、驚いてババクンとお手つきしてしまった。

「俺のすぐそばに、いて。」

「・・・わ、わかりました。努力、します。」

何でもないように答えたつもりの声が、ちょっとだけ震えていたのはお腹に乗っていたご主人さまが動いてくすぐったかったからだと言い聞かせる。

「ありがと、」ご主人さまはそう呟くと体を起こして私のお腹は何もなくなって新鮮な空気を吸い込んだ。いつものように口元に優しい笑みを浮かべながらご主人さまはベッドから降り、私の部屋ではないほうのクローゼットを開けた。中には、ご主人さまの服がたくさん詰まっている。私はベッドから起き上がらずに横になったままそれを見ていた。

 ご主人さまは上から脱ぐ人だ。パジャマの上を脱いで肌着を着る。その上から私よりも長くて筋肉のある腕がパリッとしたワイシャツを着るのを何も考えずにじっと見ていた。きっと不倫をしている女の人の気持ちってこんななのかもなあ。なんて今まで考えたこともないようなことを思いながら、ご主人さまのワイシャツ越しの背中を見つめた。寂しいというよりは、虚しい。悲しいというよりは、辛い。切ないというよりは、憂鬱。

 私が選らんだ赤色のパジャマのズボンを脱いで黒のスーツを穿く。それから、扉に吊るされているベルトを一つ選んで腰に巻いていく音を聞いていた。かちゃかちゃ、しゅるり。そのまま、ベルトの隣りに吊るされているネクタイを二つ手に取ってご主人さまはこちらを向いた。

「どっちがいいかな?」

・・知らんがな。思ったけどそんなことを口にしたら嫉妬しているみたいだから、ご主人さまの手にある緑と赤のネクタイを見比べてさっきまで来ていたパジャマと同じ色のネクタイを指差した。ご主人さまは、こっち?と片方のネクタイをちょっと持ち上げて私の頷くのを見て選ばれなかったネクタイをクローゼットに戻した。

 私には、すぐそばにいてくれというくせに。ご主人さまはあっという間に私の目の届かないところに行ってしまう。私はここに縛られているのに、ご主人さまは自由な鳥のように羽ばたいて行ってしまう。不公平だけど、当たり前だ。だって、私はご主人さまのペットなんだから。ペットはいつも取り残されているんだ。

「じゃぁ、いい子にしててね。夜ご飯は何か買ってくるから。そのまま、寝てて。」

「・・・・はーい。いってらっしゃーい。」

お洒落なスーツを着て、きちんと髪を整えたご主人さまはそう言って私の頭をまた撫でると、口元に笑顔をくっ付けたまま部屋を出て行った。私は、ベッドに横になったまま、さっきまでご主人さまが乗っていたお腹に手を伸ばした。


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