九月 ペアルック
ご主人さまには、恋人がいる。
「何ですか、この悪趣味の塊のようなシャツは。」
「pair look. 」
無駄に良い発音だな。さすが、帰国子女だよ、なんて心の中で呟いてすぐにそんなの知ってるよ、と思う。
「それくらい見ればわかるよ、馬鹿にすんな。」
「恋人さんとどうですか?って言われて・・つい。」
「私はペットですが。」
「俺はペットを生涯の伴侶にするタイプなんだよ。」
至極真面目な顔をして、この人一体何を言ってるの。前から何度か思ったけれど、そろそろ確信に変わる。
この人変態だわ。間違いない。
「うう、怖いよう。ご主人さまは変態だよう。」
大げさに怯えてみせれば、ご主人さまは楽しそうに笑う。高く大きく口を開けて笑う。
ご主人さまには恋人がいる。
けれどそれは私ではない。きちんとした女の人だ。
綺麗な女の人だった。私は、見たことがある。
「ね、着てみて。」
「嫌ですよ、どうしてですか。私はペットなんだから、ちゃんとした恋人に頼むべきでしょ。だいたい、彼女がいるんだから、その彼女さんに頼んで」
ください、そう続けようとしてばくんと口を閉じた。そうだ、この人の前で恋人さんの話はしてはいけないんだった。ヤバイかもしれないと思って見ると案の定、俯いてしまったご主人さま。
「・・あ、あーの、」
前にちょびっと好奇心を出してしまったときも、こんなだったなあ、長いふわふわの天然パーマに隠れてしまっている表情の見えない顔を見つめてさて、どうしようかとシャツを手に取る。
ご主人さまには、恋人がいる。
だけど、その人の話は一度だってしてはくれない。
「・・・あ、ば、バイトの時間だ。」
ありがたい天の助けか。シャツを掴んだまま呟くよりも大きな声で言って、私はバタバタと部屋の中を駆け回り、ご主人さまの脇をすり抜け外に出た。バタンと扉を閉じてそのまま扉に背を預ける。ひんやりとした温度がなんだかひどく心地よかった。
シャツを持っていたことを忘れたまま、マンションの一階にあるバイト先に入るとマスターが笑顔で私を見た。しわがある目元が優しくて私はくたびれた旅人のような溜め息を吐いた。
「どうかしたのかい?今日は、休みのはずだけど。」
「部屋にいらんない空気だったので、ちょっとバイトしにきました。マスター、コーヒーをください。」
マスターの前にあるカウンター席に座った。コーヒーの良い匂いがして誰もいない店内に静かに聴いたこともない外国の曲が流れている。この曲はご主人さまが聞けば、何と歌っているのかわかるんだろうな、と思う。
「ケンカかな?・・・何だい、それ。シャツ?」
「ご主人さまが出張で買ってきたペアルックです。」
「ほー・・」
マスターが苦笑いとも呆れともとれるような声を出した。やっぱり、あの人は変態なんだろうな、と思う。けれど、ご主人さまには恋人がいる。
「・・・マスターは、会ったことがありますか?」
こぽこぽ、こぽこぽと水がお湯になる音がする。誰もいない店内。本当なら今は、準備中で入ることも、コーヒーが出ることもない。
「誰に?って聞くのは、反則かな。」
曲がブツンと大きな音を出して、止まる。くぐもった音が、まるで怒っているみたいに聞こえるから耳を塞ぎたい。
「別に、本当に、どうでもいいんです。ご主人さまに恋人がいようが、好きな人がいようが、こうして・・・・うん、飼ってくれれば、金も宿も仕事も心配しなくていいなら、どうでも・・・・だた、」
角砂糖が置いてある。私は、それを口に入れて溶かすように焦らすように端を歯で崩していく。ちょっとだけ甘くて口の中がざらつく。
「・・・ただ?」
「ただ、ただ、それでご主人さまに迷惑をかけるのは、」
奥歯に乗せた角砂糖をゆっくりと潰す。じわりじわり、甘さが砂糖と一緒に流れ出す。止まったままのレコードが出すくぐもった音が、まるで
「はい、コーヒー。ミルクたっぷりだ。」
良い匂い、綺麗な茶色、口のなかに広がる優しい甘み。
全部、幸せなものなはずなのに。
滲んで視界が嫌で机にシャツごと顔を埋めた。
ご主人さまには、恋人がいる。
別にそんなことはどうでもいい。
だけど、だけど、もし自分のせいで優しいあの人が不幸になるなら、それはとても辛いと思った。死んでも、耐えられないと思った。
コーヒーの香ばしく優しい匂い。
誰もいないお店の静かな準備の気配。
何と言っているのかわからない外国の美しい歌。
温かい者に囲まれていながら、世界に人に甘やかされていながら、苦しくて悲しくて怖くて死んでしまいそうだった。
私は、不幸だった。
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