八月 コーヒーや
目の前に座っていたご主人さまが突然、そういえばと思い出したように口を開いた。私は、暑さになんとか対抗しようとソファにだらりと体を投げ出したまま目だけをご主人さまに向けたまま、だんだんと頭に上ってくる血を感じていた。
「バイト、したいんだっけ?」
言われた内容はそのまま逆さまにソファに体を投げ出していた私の頭を素通りしていった。血が、ぐつぐつと沸騰している。
「なんて格好してるんですか。ほら、危ないですよ。」
返事がないので気になったのか、ご主人さまが私を見て驚いたように口を開けた。それから、いつものように口元に優しい笑みを浮かべながら私の頭を持ち上げる。一気に血が下ってきてくらくらと眩暈がする。
「・・・なんですか?」
「バイトです。したいって言っていましたよね。」
背中に添えられているご主人さまの大きな手の熱がじんわりとそこに汗を滲ませる。触れられているだけで、熱い。私はなるべく早くこの眩暈がどこかに行ってしまえと思いながら尋ねた。
「言いました。けど、私は今まで面接でうまくいった験しがないので。したいと言いながらも努力はしないタイプです。」
「俺の知り合いにコーヒー屋をしている人がいるんです。ここの一階なんですが・・ご存知ですか?」
「ご存知ではないです。あまりこの部屋からは出ませんので。で、そのコーヒー屋さんがどうしたんですか?」
「ええ、ちょっと行って見ませんか?」
「・・・今からですか?」
「はい。今からです。」
時々、ご主人さまが何を考えているのかわからないときがある。私はまだごうごうと血の流れる音のする頭をなんとか働かせながら立ち上がることにした。ご主人さまが今から出かけるというのであれば、私は今から出かけなければならない。ペットとはそういうものだ。
背中から手の平が離れて、人の熱がなくなったそこはほんの少し風に当たり冷えた気がした。
ご主人さまに付いて階段を降りていく。それから一旦、マンションの外に出るとぐるりとマンションの外壁に沿って右に行く。そこには今まで気が付かなかったが、小さな看板とお洒落な扉があった。どうやら、ここが喫茶店らしい。
「いらっしゃい。やあ、葉。そろそろ来る頃かと思っていたよ。ちょうどお昼休みだ。」
「すいません、マスター。遅くなってしまって。」
「いいんだよ。営業時間中に来られるほうが大変だ。」
変な人がカウンターにいる。マスターと呼ばれる割にはそんなに年寄りというわけではなくて、けれど確実におじさまではあるのだけれど。何もかもを見透かしてしまうような鋭い眼とは正反対に顔の輪郭は丸くてその丸い頭の上半分が隠れるくらい長くて大きなターバンを頭に巻いている。青いターバンが腰元でマスターが動くたびにひらひらと揺れる。腕にも、首にも、腰にも、とにかく体のいたる所で色とりどりのターバンが揺れている。
「さあ、座って。何かご馳走しよう。」
「すいません。ありがとうございます。・・・ほら、」
「あ、はあ。」
ご主人さまが慣れた足取りでカウンター席に座って、そのすぐ隣りの椅子を引いて手で叩く。私に座れと言っているのは何よりも明らかだけど。私はちょっとびくびくしながらそこに向かう。
今まで見たことないタイプの人だ。カウンター席に座って目の前にいるマスターをチラチラと見ながら私は机の上やら、窓際の座席やらを盗み見る。今まであまり喫茶店という場所に入ったことはないけれど、本などで読んだイメージの通りの喫茶店だ。レコードがあって、年代物の本や家具が置いてある。店の端に申し訳程度の大きさの観葉植物がある。
「君が葉のペットくんだね。はじめまして、名前は?」
「は、はじめまして。ペットです。」
「・・・僕は、島崎です。君は?」
「ご主人さまのペットです。・・あぁ、本名は、」
「マスター。名前はペットだよ。それ以外なにもない。」
「そうなのかい?名前をつけていないのか。なるほど、まるで夏目漱石だね。我輩は猫であるって知っているかい?」
ループしかけた会話にご主人さまがさり気なく入ってきた。まるで私の名前を聞くのが怖いみたいに。慌てたように声を出したご主人さまをマスターは興味深そうに楽しそうに目を細めて見つめた。私はどうしていいかわからずに、ご主人さまの横顔を見たりそれを見つめるマスターを見たりした。マスターの頭に巻かれているターバンは何か模様が書いてあるようで所々が赤と黄色に混じっている。
「・・・それで、マスター。俺の大事なペットをここで働かせてみてほしいんです。俺が仕事をしている間でいいので。」
「うん。もちろんいいとも。ちょうど、人手がほしいと思っていたんだ。葉の大事なペットだから、悪い虫が付かないように裏方をお願いしたいんだ。つまり、厨房を任せたい。」
「ちゅ、ちゅうぼう?で、でも、私・・料理はそんなにうまくないです。それに・・・」
話がまとまった途端に私の中の不安虫が顔を出す。これだから、私はニートなんだ。誰かの声が意地悪く言う。うるさいな。いいでしょ別に。そっぽを向いて聞こえなかったふりをする。働きたいなんて言いながら、本当は働きたくないと思っているんだ。ただ家にいるだけでいいんだったら何度でもそうするさ。本当のことを言いなよ、本当に本気で働きたい人なんていないんだよ。
「大丈夫。来たくなかったら来なくてもいい。営業時間内の来たいときに来て、帰りたくなったら帰ればいい。葉が仕事をしているときだから・・平日ならいつでもいいってことだ。来れる日に、でいいよ。もちろん、その代わりあまりお給料は期待しないでほしいんだが、お小遣い稼ぎだと思ってくれるといいかな。」
「・・・きたいときで、いいんですか?」
「あぁ。そんなに毎日忙しいわけじゃないんだ。僕が、歳を取って疲れやすくなっただけでね。だから、簡単な食事とかケーキなんかを作ってくれればそれでいい。どうかな?」
できるかもしれない。大丈夫かもしれない。私の中でお調子虫が首をあげた。それなら、ちょっとだけなら。私でも、
「やって、みます。」
なんでかちょっと掠れてしまった声で答えると、マスターは嬉しそうに目を細めて私を見つめた。私は、何がなんだかわからないけど、不安と嬉しさと希望と絶望で心臓が口から出てしまったんじゃないかと思うくらい、息が苦しくなってしまってそれどころではなかった。
「よし、じゃぁ、そうと決まれば。はい、コーヒーどうぞ。」
カウンターの向こうから出されたコーヒーは、美味しそうな熱そうな湯気を出していた。この熱いのに、なんだってホットなんだろう。思ったけど、私の口はこれ以上なにか声を出すことはできそうになかったので黙って頷いた。
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