六月 室内干し
しとしと、といったいいつになったら止むのだろうと思うくらいに降り止む気配のない雨を見つめていた。部屋の中はなんとも言えない湿気っぽさとなんともしがたい生乾きの匂いで満ちている。
雨は嫌いではない。むしろ、大好きだ。風邪さえひかないのであれば、雨の激しい中でじっとりと濡れながらはしゃぎまわりたいくらい、雨が好きだ。けれど、今はそんなことをして洗濯物を増やすわけにはいかないし、前にそれをしたときに思いっきりご主人さまを心配させてしまったので、うずうずと疼く身体を押さえつけ、私は空を見上げていた。
「ああ、洗濯物が乾かない。毎日、毎日、フル回転のように洗濯して、乾いたのを畳んで・・・しかし、」
数日前から、問題が一つ生じているのである。
「私の服が、圧倒的になくなってしまっている!!」
ばばーんと、一人で効果音までつけてまるでお芝居のように大げさに言ってみる。しかし、如何せん私一人の部屋。誰からも返事もなければ拍手もない。いや、あったとしたら怖いのだけれど。私はそんなことを誰もいない部屋に向かってぺらぺらと口を動かす。
私は私と話すことが好きなのである。私の話に私はとてもいい返事をくれる。そして私は私ととても話が合う。
「ご主人さまの服はなんとかうまく乾かしているんだけど、どうにも私の服にまでは手が回らない。困った、これは困った。」
最初のうちはすこぶるうまくいっていた、と思うのだけれど、だんだんと数の少ない私の服は不足し始めたのである。そもそも私は家を出たときにほとんど身一つの状態だったため、今、着ている服や下着はご主人さまのお古とご主人さまの部屋に忘れられた何者かのお古なのである。そんなものが多量にあるわけもなく、私の持っている服はとても少ないのである。
「まあ、今の所。外出する予定も理由も意味もないから、いいけど。」
家にいたときだって、ニートだった私は中学生や高校生の頃の服を着ていたし、下着はなるべく安い千円以下のものを買っていたので特にサイズが合わないちぐはぐな服や下着を気にしたりはならなかった。
「だけど、さすがに・・三日も同じ服を着てたら、気がつくよね。臭いよね、毎日洗濯してって言われてるもんね。」
くんくんと自分の腕に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。何の匂いもしないと思うけれど、自分の匂いだから鼻が麻痺しているだけかもしれない。家にいたときは、毎日お風呂に入って、服も洗濯していたのに近づくと家族は臭い、臭いとよく言って嫌がっていた。ひょっとして体臭がきついのかもしれない。いや、絶対そうだ。だとしたら、ここ数日ばかりご主人様に相当不快な思いをさせているのではないのだろうか。きっとそうだ。なるべく近づかないようにしているけれど、もっと徹底すべきかもしれない。そうだ、その証拠にご主人さまは私に毎日お風呂に入るように言うし、服もちゃんと洗濯してと言っている。そうなのだ、それくらいにきっと私は臭いのだ。
「うわあ。やばいじゃん。どうしよーう。どうしようかー」
こんなときに限って私はだんまりを決め込んでしまう。いつもそうだ。本当に答えがほしいときに私が答えてくれた験しがない。大事なときはいつもだんまりだ。弱虫はそうやって自分を守るので必死だ。傷つかないように、痛くないように何も言わないで逃げるのに必死だ。まるで全速力で逃げれば助かるとでも思っているかのようで、本当に嫌になる。
「あー・・もう、もう、もう、もう、もう、どうしようかなあ」
ごろりと程よい湿気を纏ったカーペットに身体を投げ出して、まだ見慣れない天井を見つめた。賃貸で高い割には手抜き工事だったらしく一年と経たずにボロが出てあちこちが捲れていた家とは違い、ご主人さまのマンションはハイテクでピカピカのテッカテカだ。くるくると手の届かないところで回る換気扇と天窓がそれを物語っている。あれ、どうやって掃除するんだろうか。
「一体、ご主人さまは何者なんだろうねえ。何をしている人なんだろうねえ。」
とてもお洒落で高級そうなこんなマンションに一人で住んでいて、こんな妖しげな私をペットとして飼っていて、毎日のように六時には帰ってくるのにお金に困っていることもない。むしろ、たぶんお金はたくさんありすぎるくらいなんではないだろうかと思う。それにしても、ご主人さまの口から今まで家族の話題はあまり出たことがないな。
「いったい、なんなんだろうねえ」
床に耳を当てるとブームブームと寝室で動かしている除湿機がフル稼働している音が振動として伝わってくる。あれでご主人さまが着ていく服は乾くだろうけれど。
だらんと伸びてしまいかけているシャツの首元をひっぱり、襟の匂いを嗅ぐ。冬場なら一週間くらい洗濯をしなくても平気だけど、流石に今は六月である。ちょっと汗ばむ日もなくはない。
「やっぱ、今日は洗濯しよう。で、乾いてなくても、別なのを着よう。・・・よし。」
ぱたん、両腕を横に落として力を抜く。手の甲にしっとりとカーペットの毛がまとわりつく。なんとなく、気持ち悪い。なんとなく、惨めな気持ちになる。
服がないのが、悲しいわけではない。それにきっと服がないだなんて言えば、ご主人さまは喜んで買ってきてくれるだろう。だけど、そんなの惨めでしかない。ただ、家にいるだけで、ただ家事をしているだけで。まるで犯罪者かのように周りは私を見る。仕事をしていないことはまるで罪であるかのように、人が逃げていく。私を後ろ指を指している。初めて会えば、会話を始めれば、何の遠慮もなく、何の感情もなく、まるで今日の天気を聞くかのように当然の顔をして尋ねるのだ。
『お仕事は、何をされているんですか?』
まるでこの世界の生き物が息をすることと同じ事のように彼らは私に職業を聞く。そんなことを聞いたとしても、彼らの人生において何も影響を及ぼさないというのに。まるでとても大切なことのように必ず、返事がくると思っている。それが正しい世界の理だというように。
わかっている。成人を迎えれば仕事をする。それは当然だ、世界の正しい理だ。そこから外れてしまった私が異常なのだ。ただ、家にいて、ただ家事をしているだけ。そんなのは仕事じゃないから、正しくない。異常だ。
「あーあ、服がない。金がない。・・・・職がない。」
だって、じゃぁどうすればいい。それしかないのに、それならできるのに。小さい頃から学校を休むたびに母に教わってきた掃除に洗濯、それしかないのに、それならできるのに。それじゃあ、どうしてだめなの。主婦だって立派な仕事だとみんな言う。テレビでも雑誌でも、まわりの人だってそう言う。だけど、本当はそんなことちっとも思ってなんかいない。家事手伝いなんて仕事じゃない、片手間にやるものだ、誰もみんなそう思っている。口に出さないだけだ。主婦は結婚して、子育てをしている女性、つまり母親にしか当てはまらない言葉だと。私のような人間のことではない、私のことではない。
だから、私は、ならば、私は、
「私は、ニート。私は、ニート。私は無職なのだ。」
誰も仕事をしていない私を主婦と認めないなら、私は喜んで自分を無職と呼ぼう。仕事をしていない私が人ではないというのなら、私は喜んで人間をやめよう。どうせ、ただ家にいて、ただ家事をしているだけなのだから。
「・・・私はペット。ニートなペット。」
何の生産性もない、何の存在意味もない、ただのペット。ただの無職、ただのニートなペット。
「雨って本当、テンション上がるわあ。」
横になりながら、見つめた窓の外。サーサーと霧のように降る雨が、うずうずと体の底で眠る何かを疼かせる。いつもと違うと思わせる。考えなくてもいいことを、思わなくてもいいことを、考えさせて悩ませる。
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