五月 仮冬眠

 私は世界で一番、眠ることを愛している人間だと思う。私は眠れさえすれば他に何もいらないと思うときが本気である。夏場に暑くて眠れない日々が続くととても悲しい気持ちになるし、冬になれば冬眠をしてみたいと願っていた。

「・・・大丈夫ですか?」

声がする。心配している優しい声だ。いつものようにうんざりした家族が、死んだのではないかと確認するような声ではない。誰だろう、この人。誰だったろう、この声。

「大丈夫ですか?まだ、起きれませんか?」

額に、大きな手が触れた。平熱が低くて冷たい私の手じゃない温かくてほんの少し固い手が、額に乗っている。誰だろう、この人。誰だろう、この手。

「・・・辛い、ですか?」

辛い。私は、起きていられないくらい辛くなると眠りに逃げる。夢の中でも現実が反映されるから夢も見たくない。ただ、何も考えずに心と意識を手放してしまうだけ。うとうとと、体を横たえてまどろみの中をさ迷うのが好きだ。誰も何もない世界で消えていく意識を確実に感じる。なにも、かんじない。

私にとって眠りとは、そういうものだ。

「・・・泣かないで、」

優しい手が頬に触って、撫でる。涙が勝手に閉じた目から零れたから、それを指が柔らかく拭う。人間にも、冬眠という機能があればいいのに。そうすれば、私はこのまま辛い現実がどこかに消え去るまで何も考えずに眠っていられる。布団の中に包まれた安心感だけが私を生かすのに。

「・・今は春ですよ、起きてください。」

「いやです・・・いや、です、」

ようやく動いた口で舌足らずな返事をして、涙で濡れた目を開けた。

 すぐ近く目の前に滲んだ世界に人がいる。家族の誰でもない、ふわふわの長い髪に優しく耳を震わせる低く細い声、優しい切れ長の瞳、柔らかく弧を描く口元。長い指が滑り落ちようとしていた涙の粒を、撫で拭う。

「ご、しゅじん、さまあっ」

「はい。おはようございます。」

ベッドの端に腰掛けて、私の方に体を向け手を伸ばすご主人さまはいつもと同じように柔らかく微笑んでいて、私は何が悲しいのかわからないけれど、じわじわと盛り流れる涙を止められずに、優しい指に涙を掬われていた。

「・・・ッ、わ、わたし、はッ、ひ、つよっ、で、すかッ、」

ひくひくと痙攣したように途切れ途切れにしか口にできない言葉が腹立たしくて、けれど必死に問いかける。必要ない、と言われてしまいたかった。母のように泣かれると困るんだけど、と冷たく突き放してくれれば何も期待しないでいられる。早く酷い目に遭わせてほしかった。悲しみと絶望の沼にずぶりと体を沈めてしまいたかった。何もかもを失くしてしまいたいと思った。

 救われたくも、報われたくもないから、早く楽になりたかった。

指の感覚がなくなるくらいぎゅっと毛布を握りしめ、私は何度も何度も尋ねた。

『私は必要ですか。私は必要ですか。私は必要ですか。私は必要ですか。』

どれくらいちゃんとした言葉になっていたかなんて知らないし、関係ない。答えなんて欲しいわけじゃなかった。最初から一方通行の問いかけだった。

 私は必要ですか。

答えなんてない問いかけだった。どんな答えだって不正解で正解だ。

 私は、深く深く絶望してしまいたかった。

額を優しく撫でる大きい手が温かくて怖くなる。頬を滑ろうとする涙を柔らかい仕草で拭う長い指が温かくて怖くなる。何も言わないこの心地よい空気が、温かくて怖くなる。温かさが、怖くなる。

当たり前にしてはいけない。受け取ることに慣れてはいけない。何度言い聞かせても、一瞬でも気を緩めると忘れてしまう。この時間が永遠のものだと思い込んでしまう。

温かさが、怖くなる。温かくて、怖くなる。

「・・・ご、しゅっ、じっ、さまっ」

「はい。」

早く酷い目に合わせてほしい。早く絶望させてほしい。早く何も考えられないようにしてほしい。

「くっるしっ、ですっ、つらっで、すっ、」

喘ぐように叫ぶつもりで言った言葉は、うまく言葉にならない私の心が出したできる限りの助けを求める声で。それを聞いたご主人さまはとても整った顔を苦しそうに歪めた。

「・・・・俺も、苦しくて辛いです。」

早くこの心地よさを打ち消してほしい。あなたから突き放してほしい。そうじゃないと、私はここにいたいと願ってしまうから。この温かさに甘えてしまう。あなたの優しさに安心してしまうから。

「・・・・ッ」

「どうすれば、あなたの悲しみや苦しみを和らげることができますか?」

「・・・っら、い、・・っす、」

「俺は、どうしたらいいですか?」

「いらっ、ないっ、ですっぅ。」

そんなに優しくしないで欲しい。何度も何度も思って、思って、思って、思い続けている言葉は決して口に出すことができないまま。口に出した途端にペットではいられなくなるんじゃないだろうか、と怯えた心がストップをかける。

 すぐ上にあるご主人さまの顔はじわじわと、瞳にいっぱい溜まった涙でぼんやりと滲む。その涙が流れていくとすぐに優しい指の腹で拭われてしまう。一人で泣いているときは、耳が涙でぐしょぐしょになるのに、今日はならない。

 どんなに泣いても、叫んでも、私の悲しみが私だけのものにならないなんて。

「泣かないで、一人で泣かないで。」

私のじゃない悲しみが私を包んでいる。顔を埋めるように抱きしめるように体に触れたご主人さまの顔がピントが合わない近距離に見えた。私の顔のすぐ下にあるふわふわの天然パーマから私と同じシャンプーの匂いが、する。

「ご主人、さま。」

涙も悲しみも、もう私のものではなくなってしまったから。私はただぼんやりと何もなくなった天井を見つめていた。大きくて広いご主人さまの背中にそっと手を伸ばして、触れてみた。温かい人肌。私が苦手な他人の熱。

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