五月 卵焼き
たまごを三つ割って、そこに砂糖を大匙三杯に牛乳をほんの少し入れる。牛乳を入れすぎるとスクランブルエッグになるから牛乳は本当に気持ち入れるだけだ。そうして四角いフライパンにバターをたっぷりと溶かして、混ぜた卵を入れる。
「・・・・・うん、綺麗な黄色。美味しそう。」
家にいたときもほぼ毎日作っていた、卵焼き。これだけは自信を持って自分でもおいしいと言える料理である。
いや、あったというべきか。
「・・・うっ、何だこれ。あっま!!すげー甘い!!」
「え・・?」
綺麗にできた黄色の卵焼きを一口ぱくりと食べた残念なイケメンは大げさに顔をしかめて、けれど嬉しそうに声を上げた。
「あー、これはこれでうまいなあ。俺ん家はしょっぱいたまごやきだったんだよ。だから、甘い卵焼きは初めて食うけど・・・・俺は、甘いほうが好きだわ。」
ぱくぱくとおいしそうに卵焼きを食べる残念なイケメンを見つつ、頭からサーっと血が引いていくのが感じられた。今までお弁当に入っていたのは全部この卵焼きだったけれど。
「えっと、た、卵焼きってこれ以外にも、あるんですか?」
「え?何言ってんの、お前。」
「そうですね。一般的に卵焼きというと家によって砂糖入りの甘い卵焼きとだしが入ったしょっぱい卵焼きに分かれるようですよ。」
「そう、なんですか・・知らなかったです。」
「もしかして、葉のペットちゃんは、あんま卵焼き食わないの?」
「そうですね。卵はアトピーがあったのであんまり食べませんでした。」
「あぁ、だからですね。」
にこり、優しくご主人さまが微笑んでくれたけれど、一つ犯してしまった失敗に自分の感情がわかりやすくマイナスになっていく。どんどんと海の底の底まで気持ちが落ちていくような感覚。
「・・・おい、お前のペットがわかりやすく鬱状態になってんぞ、葉。」
「奏士が余計なことを言ったせいじゃない。」
「俺のせい?」
じわじわ、繰り広げられる会話に目が熱くなって、呼吸がうまくできなくなってくる。泣くな。泣いたら、ダメだ。
「そうだ。奏士の家の卵焼きがしょっぱいから、」
「俺の家の卵焼きは関係ないだろ!・・あ、じゃぁさ、葉の家の卵焼きはどうだった?」
さぐん、体中に力が入るのがわかる。何て答えて欲しいかなんてわからないけれど、ご主人さまの口から零れる言葉が怖い。じわり、じわり、視界が潤む。
「俺の家?・・・は、卵焼きなんて出なかったな。あぁ、でもスクランブルエッグとかなら出た。」
「へえ、そうですか。そうですか、葉さんの家は家庭の味じゃなくてコックの味だもんな。何?すくらんぼーえっぐ?」
「scrambled eggs. あとは、フレンチトーストとか。」
「へーへー、お前の外国生活自慢は聞き飽きました。」
カチン、体が固まり続けて力が抜けない。けれど、調子のいい私がスクランブルエッグなら甘い味付けだ。なんて喜ぶ。なのにすぐに別の冷たい私が言う。だから、なんなのさ。
卵焼き一つ作れないのか、とじわじわ心をマイナスエネルギーが染めていく。家にいたときもそうだった。何をしても何をしなくても、誰も私を褒めてもくれなかった。
母は私を褒めてくれなかった。私が何をしても喜んではくれなかった。最初にくるのは否定の言葉、あとに続くは自分の考え。私の言葉は全部間違いで正しいのはあなただけ。母はいつも、ありもしない私のトクベツなところを褒めて認めて喜んだ。
それは誰なの。あなたが見ているのは、だれなの。
私はだんだんと何もできなくなっていった。何もしなくても褒められるし、何をしても褒められない。ちんぷんかんぷんな生活に何もかもがわからなくなる。どこまでやれば完成なの、今の形は半分ですか。ここまでやりました、ここまでやれました、ここまでやれば、それでいいでしょ。
私は逃げた。そうやって逃げ続けた。
だって向き合っても褒められないし、喜ばれない。何をしても見ているのは私じゃない誰か。どうしたらいいかわからないから迷って困ってぐるぐる廻る。廻ってそうして結局違ってがっかりするんだ。私は、誰よりも、
「・・・おいおい、ペットちゃん?」
「・・っ!!」
「あ、おい!!・・・葉、あの子、情緒不安定すぎんぞ。」
「まあ、そっとしておいてよ。」
背中に聞こえた声を耳には入れないで、私はばたばたとクローゼットの奥にある部屋というより空間に近い場所に逃げ込む。体を畳むように小さくして腕に顔を埋めた。ボロボロと零れる涙は止められなくて止めようとも思わなくて、ただ流れるままに声を出さずに泣いていた。
まただ。いつもこうだ。勝手に涙が出てきて止まらなくて、自分の感情なのにコントロールができなくなる。さっきまでご機嫌で卵焼きを作っていたのは誰なのか。こんなに悲しいのに、心の中ではもう一つの感情がふつふつとわきあがる。
“ダメな奴。価値のない奴。役立たず”
真っ黒な怒りとも憎しみとも言える感情が湧き上がり、マイナスエネルギーと混ざり合って溶け合って一つになろうとする。
「・・だめな、やつっ、やく、たたずっ」
勝手に口から呼吸と共に声が漏れる。頭の中に渦巻く言葉がいつの間にか声になる。私の意志とは関係なく誰かに操られるように発せられる。
母はこの泣き方をとても嫌がった。私がこうして泣くと顔を背けて溜め息を吐いた。すぐに泣き止めと何度も言われた。そうして私は一人で誰もいない部屋で声を殺して泣いていた。
「だ、めな、やつッ、かちの、な、いッ、・・・やく、たたずうっ」
小さな声で誰でもない自分に言うように言い続ける。何をしても褒めてくれない。何をしても喜んでくれない。何をしても、認めてくれない。私は一番、私に喜んで褒めて欲しかった。私に認めてもらいたかった。
「-っ」
暗いクローゼットの奥。私はどれくらいそうやって泣いていたのだろうか。それとも、途中で酸欠になったのだろうか。私の意識は突然にブッツリと切れて飛んでいた。顔を埋めているからいつも酸素が薄くなる。私は、そうやって呼吸ができなくなるまで、体が汗でぐっしょりになるまで泣きながら、一体何をしているんだ、とまた自分に嫌悪され蔑まれ、それが悲しくてまた泣くのだ。
救われなくても、報われなくてもいいから、早く楽になりたい。いつからか、そう願っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます