ニート、拾われました。

霜月 風雅

第1話 一年後の五月 プロローグ・ニート拾われました。

私がペットになってから、一年が経とうとしていた。犬でも猫でもない、普通の人間である私がご主人さまである男の人に拾われて飼われるようになってから一年が経とうとしていた。

パタンと本を閉じる音がして、ご主人さまが読んでいた難しそうな英語の本を床に置いた。すぐ隣りにいるから、視界の隅に入ったご主人さまは、うーんと長い間黙っていたせいで少し掠れた声を出しながら大きな体を伸ばした。寄りかかるように背中に当たっていたソファがその動きで少し後ろにずれた。

 視線をゲームに移すと、私の前を頭が横切って膝に重みがかかった。

「ご主人さま、眠いの?」

「うん・・・・眠い。」

ちょうど、きりの良い所だったから、ゲームをやめて膝に乗っているご主人さまの頭に尋ねると、甘えたような声で簡潔な返事。話しかけるのも、なんなのでふわふわの綿菓子みたいな髪を遊ぶように撫でているとすうすうと微かに寝息が聞こえてきた。どうやら、本気で寝たらしい。

 やることがないため、私は膝の上に乗っているご主人さまの寝顔を見つめてご主人さまの緩やかな天然パーマを指先で味わうように絡めて撫でて梳いた。

 いつもは、優しく細められて私を見つめる切れ長の目は今は閉じられて何も映していない。すっと通った鼻筋も、いつも優しげに微笑んでいる口元も、ただ寝ているというだけでこんなにも違う表情をするんだろうかとじっと見つめたまま考えた。

「ねえ、ご主人さま。もうすぐ私がここにきて一年になりますよ。」

返事がないとわかっているからこそ、言える言葉に何の感情も込めずにけれどご主人さまの顔を見つめ続けることはできなくて。

 いつの間にか見慣れていたリビングから見える外の景色。いつの間にか当たり前になっていたご主人さまとの生活。このまま、ずっと続いていくような温かな日常。大切な、時間。

だけど、私はいつまでもここにしがみついているわけにはいかないことをずいぶん前から気付いていた。本当はたぶんここに初めてきたときから知っていた。知っていて、知らないふりをしてきた。それくらいここは、自分にとって心地良い場所だったのだ。

私は、生きる価値があるのだろうか、と考えていた。

ただ家にいて、ただぼんやりと日々を過ごしていた私に。

それはただのニートだ。それはただの荷物だ。

それはただのダメな人間だ。

どんなに家族が擁護してくれても、いやされればされるほどその裏にある声がする。

家にいる私は、恥ずかしい存在。外にでたら近所の人が、貼り付けたような笑顔で見ている。どうしているの、あの人は一体、何をしているの。仕事には行かないの。学校には行かないの。どうしてそんな目をしてみるの。あの子は、おかしい。

家族は優しくても、まわりの人はそんな風に思ってはくれていない。まわりから言わせれば、仕事をしていない恥ずかしい子どもがいる。 

私は、生まれたときから人間以下だったんだろうと思う。

物心ついたときから、他人が平然とできていることが何一つできなかった。幼稚園に通うことも嫌いで誰かと同じことをさせられるのが不快でしかなかった。一緒に遊ぼうと言っておきながら、私がやりたくない遊びを強要することが理解できなかった。鬼ごっこなんてやりたくなかったし、私に触れないでほしい。友達と手を繋いで遊ぶ意味も、突然に抱きついてくる女の子の無邪気な本能的行動は、恐怖以外の何者でもなかった。

 小学校にあがっても、それは変わらなかった。学校に行くことは私にとって意味のわからないことだ。どうして行かなくてはいけないのか、何をしに行くのか。特に行事なんて理解の範疇を超えていた。何が楽しくて彼らがあんなに熱心に打ち込んでいたのか、何を求めてあんな苦行をしているのか、未だに私にはわからない。友達同士でグループを作るときも、必死に余らないように話を振る様子を私は尊敬と似た気持ちで見ていた。

 私はどう頑張っても、そこにはたどり着けない。

私にとっては、それは全くもってどうでもいい話だ。

 中学・高校になっても、私はそのままだった。当たり前だ、何も変わるような出来事が起こっていないんだから。変わるはずがない。キラキラと眩しい青春を謳歌しようとしている期待に満ちた眼差しを、やはり憧れに似た感情で見ていた。

 どうして歳を重ねるとこんなにスキンシップが多くなるのだろうと思う。そんなに何度も手を握らなくてもいい。そんなに抱きつこうとしなくてもいい。触られるたびに走るのは、悪寒。身体が硬く強張り、恐怖で声がでなくなる。どんなに親しくても、それは変わらない。だからこそ、学校になんて行きたくなかった。行けなかった。行ったら何かが変わるのかと、何度も思った。何度も、思った。

 行けるようになりたかった、他の人があんなに楽しそうに教室で笑っているのを見つめながら、どうしてと何度も思った。私だけ、どうしてこんな些細なことで苦しまなければならないのかと何度も叫んだ。どうして行かないのかと何度も聞かれた。悲しそうな両親の顔を見るたびに泣きたいのはこっちだと思っていた。夜中にケンカをしている声を聞きながら、冴えてしまった頭を必死に眠らせようとしていた。そしてそのままいっそ、深く深く眠ってしまいたかった。

 他人は、どうしてそんなに当たり前な顔をして当たり前にそんなことができるのか、本当にわからなかった。

 私は、どうしたってそこにたどり着けないのに。

私にとっては、全くもって実感できないことだ。当たり前の顔をして学校に行って友だちと意味のない会話をして当たり前の顔をして就職活動をして仕事をする。私には、何よりもできないことだ。

 そんな不良品をもってしまった家族は、まるで罪人のように必死に世間に媚を売って。まるで私が今にも爆発するんじゃないだろうかというように機嫌を伺って嘘笑いをする。私がいらないなら、そう言ってほしい。私がいらないということは私が一番わかっているから。早く、楽にしてほしい。何も、期待していないから。

 そんな苦しみから逃れるように、私はあの日、みんな仕事と学校に行ったお昼に家を飛び出した。なんでもいいから、私は深く傷ついて死ぬほど狂ってしまいたかった。

 ご主人さまの部屋の窓から見える夕焼けを見つめながら、私はぼんやりと考えていた。

 リンリンと手がいつの間にか首輪についた大きな鈴に触れて音を出していた。いつも私を大事にして優しくしてくれているご主人さま。私に色んな物をくれるご主人さま。私の大好きなご主人さま。けれど、そのせいでご主人さまは色々な物を失っている。今までも、そしてたぶんこれからも。

「ねえ、ご主人さま。私は、」

ここにいてもいいですか。ここで生きてもいいですか。

私は、何も聞けなくてただ口を噤んで黙るだけだ。答えを聞くのが怖くてたまらない。どんなに大事にされても、されても、心の裏には違う声があることを私は知っている。

 例えば、明日私がいなくなったとしたらご主人さまは探してくれるだろうか。探そうとするんだろうか。

「俺が呼んだら、すぐに抱きしめられる場所にいて。」誕生日に言われたあの言葉は本心ですか。何度も思った問いかけは一度も口にできないままだ。

 私は何も聞けなくて口を噤んで黙っているだけだ。

ねえ、ここにいてここで生きてもいいですか。あなたと一緒に。

 膝の上にいるご主人さまに触れるために私はそっと手を伸ばした。


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