第4話「トロッコ問題」

「金田美由紀。おれの人生の中で、お前は一番の黒い過去だ」


 男は、腕に少女を抱えていた。もう片方の手に出刃包丁を握って。


 薄暗い倉庫のなかで、美由紀は男たちに囲まれて、震えていた。頻りに、少女に「美雨、大丈夫だよ」と語り掛けた。その声は細々しく、独り言のように響く。


「美由紀、選べ。お前の娘を見殺しにするか、それともお前と娘で俺たちに一発やらせるか。どっちか選んだら許してやるよ」


 男の後ろについている4人の手下は、各々鉄パイプを握っている。


 美由紀はぶるぶる身体を震わせながら、


「もしわたしたちを殺したら、あんたたちは死刑よ」


「おれたちをなめてもらっちゃ困るな。美由紀、お前と別れてからおれが何人殺してきたと思う? お前らが消えても、悲しむ奴はそんなにいないさ。おれたちは言ってみれば、人を殺しても捕まらないのさ」


 少女の嗚咽は、一層激しさを増していった。


「な? だからここでお前たちを触らせろ。ここにいるみんなにね。かわいい愛娘が死ぬよりはましだろ?」


 美由紀の身体に鳥肌が立った。今にも胃液が逆流しそうになる。だが、


「美雨をこっちに返して。そうしたら、わたしから――手をつけて」


「おい、お前ら聞いたか?」男は手下たちに高らかに告げる。「とんでもないアバズレだなぁ。よし、回せ」


 手下のうちの1人が、小さなビデオカメラを取り出し、美由紀に向けた。


「物わかりがいいな、美由紀。じゃあ、まず上を脱げ。ブラジャーはおれに取らせろ」


 美由紀は指先を震わせながら、ブラウスのボタンに手をかけていく。


「よし」男は少女を一旦腕から離す。少女は床に崩れ落ちた。美由紀の動きが止まった。


「おいおい。早く脱げよな」男は包丁を振りかざすように上下させながら、美由紀に近づいて行った。「犯すのが先って約束だ」


「美雨、待ってて。すぐに助けるから」


 美由紀の中の時間が、間延びしていた。


 ゆっくりと男が近づく。ゆっくりとブラウスが落ちる。豊満な胸部がむき出しになる。


「さてさて……」男は、包丁を握っていない方の手で、美由紀の肩に手を伸ばした。「何年ぶりだっけなあ」


 手が身体の輪郭をなぞる。美由紀の身体に、熱湯を浴びるごとくおぞましい嫌悪感が駆け抜ける。



 それが胸部に到達したときだった。



 少女が男の両足を持って、力のかぎり引っ張った。


「うおっ」


 男は思いがけずバランスを崩した。足がすべり、床に転がった。少女とは思えないほどの強烈な力で、両脚が押さえつけられている。


「くそったれが!」


 男は包丁を少女に向けて、思い切り振り抜こうとした。


 その腕をとらえたのは美由紀だった。包丁が手から抜け落ちて、床に転がった。間断なくそれが美由紀の手にわたり、美由紀は男の額めがけて一気に振った。


 鈍い悲鳴が上がった。包丁は眉間に命中し、美由紀が押し込む力でずぶずぶ刺さっていった。真っ赤な鮮血が飛び散る。ほどなく、男の体躯は痙攣しながら意志を失った。


 時間はゆるゆると経過していった。4人の手下は、なにやら集まって相談しながら、合意し合った。男を放置するらしかった。4人は、不意に死を迎えた男の死を、そして哀れな姿になって涙で塗れた美由紀と少女を、嘲笑するように場を去った。


「お母さん」


 少女は、かん高い声で泣き喚いた。美由紀は少女をひしと抱きしめた。


「ごめん。ごめんね美雨。もう大丈夫、もう大丈夫よ……」


 美由紀は何度も少女の頭を撫でつけながら、少女と一緒に泣いた。


 漠然としていた何かが、あの一瞬で変わった気がした。3日前に美雨が失踪してから、警察も見つけられなかった居場所を、自分の力で突き止めて、自分の力で悪を断ち切ったのだ。


 ――美雨とわたしが泣き止んだら、まずはここから真っ直ぐ家に帰ろう。お父さんとお兄ちゃんが、ずっと待っているんだ。この選択でよかった。この先わたしはどうなるか分からない。けれど、きっと、もう大丈夫なんだ。うまくやっていける。


 2人は、泣き続けた。傍らに男の死体があった。血はまだ流れ続けていた。けれど、もうこの男が息を吹き返すことはないのだ。男が生きていたのは、過去の出来事となった。


 ――ここから出たら、きょうのことは、忘れてしまおう。


 不思議と、美由紀の身体の奥から力が湧いてくるようだった。未来へ向かおうとするエネルギーがあふれ続けていた。



 2人が家に帰って、玄関の戸を開けて、玄関口で「おかえりなさい」と緋文字で記された板を見て、その上に祀ってある、少年とその父の生首を見るまでは。




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