比翼連理 軍人×死が視える少女
彼に初めて触れた時、あまりに悲しい運命に涙が溢れてしまったのだ。
軍人である父の部下として、まだ少年と呼べそうな歳の彼は我が家を訪ねてきた。人当たりのいい笑みを浮かべ、もっと幼い私へ目線を合わせる。
「こんにちは、僕はユージーン・ロバーツです。あなたが隊長のお嬢さん?」
「……はい。わたし、エリ・ガーデナー、です。あなたは、お父さんのお仕事場のひと、ですか?」
「うん、そうなるね。よろしく、お嬢さん」
ゆったりとした動作で差し出された彼の右手を、少し逡巡して取った。
途端に流れ込む、凄絶な情報たち。
頭を殴られたようだった。ふらついてぺたんと尻餅をついた。
私は、肌に触れた人の最期を知ることができた。それは生まれ持った当たり前の感覚で、私にとっては花が芽吹くより、雲が流れるより自然だった。
だから、今さら動揺なんてしない。血まみれの最期だっていくらも見たことがある。
その点で言えば彼の死に際はありふれていた。ただ、今まで見た人の中で一番、寂しいものだったのだ。
戦場で、当たり前のように一人きりで。私の父を含めた誰からも見捨てられ、それに憤るほどの気概もこの人にはないようだった。私へ目線を合わせて、手を差し出してくれたユージーン・ロバーツは、その実空っぽの人間なのだと気づく。
私よりいくらか年上のこの少年は、私よりずっと孤独で、何も持たない。それも、さほど遠くないうちに死んでしまう、そのときまで。そんなに悲しいことがあるのだろうか。
じわり。勝手に目尻が温かくなった。
彼は焦ったように瞬きをして、私の側に膝をつく。
「ど、どうしたの? 泣くほど僕の握手が痛かった? ごめんね、あなたみたいな子の手、握ることがなくて……」
「違います。痛く、ない、です……」目の前の人の手を再び取った。寂しく荒れた戦場の景色が視える。涙がいくつか彼の乾いた手の上に落ちた。「あなたの、寂しいうんめいが……悲しい、から」
彼は瞠目して、指先をぴくりと揺らした。
「寂しい……?」
私に訊いているのか、自分に問いかけているのかわからない声音だった。
私の視線の先で、彼は思案げに目を揺らし──それからふわりと微笑んだ。
「そんなこと言われたの、初めてだ。お嬢さん、僕のことは、是非ジーンと呼んで」
「ジーン……さま?」
「敬称はいらないよ。あなたは隊長の娘さんなんだし」
「じゃあ……ジーン」
「うん」
私の手へ、きゅっと力が込められた。
「これから、どうぞよろしく。僕のために泣いてくれる、優しいお嬢さん」
それから、幾年か。不吉な能力持ちの私の周りからは緩やかに人が減っていって、気がつくと側にいるのはジーン一人だけだった。
ジーンはもうすぐ、いなくなってしまうのに。
運命の日は予定通りに近づいていた。明朝、彼は最後の出征をする。
遠出をする前に、と顔を見せにきてくれたジーンが、初めて会った時と同じように柔らかく私を呼んだ。
「お嬢さん。そう長くはない出征だから、気楽に待っていて。僕のこと、忘れないでね?」
「……はい」
冗談めいた言葉に軽口で応酬する余裕もない。ジーンの手を掴んで、両手で握り込んだ。
「ジーンも。あなたのことを大切に思う人が、少なくとも一人はいることを、……どこへ行っても、忘れないでください」
運命は変えられないけれど、せめてあの孤独が薄まればいいと思う。自分の体温を分けるように強く握る。
「……それって、お嬢さんのこと?」
いつもより低い声。ジーンの軍服の裾を見ていた私は、はっと顔を上げた。薄く目元を紅潮させた、彼の眼差し。
彼の手が私の掌を抜け出して、するり、と器用に指を絡めた。ああ、この人の掌はこんなに大きいのだ。
「お嬢さん。帰ってきたら、僕はあなたに言いたいことがある」
「……何かあるなら、今、言ってください。今回だけ、今日だけは」
「いやだよ。これは願掛けなんだ。あなたがあまりにも、今生の別れみたいなことを言うものだから」
そうして薄く笑った。
「僕が死ぬとこ、視えた?」
「っ……あ、の」
「なんでもいいよ。僕は、死なないから」
ジーンはあっさりと手を離し、私へ背を向けた。視線だけをこちらによこす。
「じゃあ、またね」
そう言い残してジーンは旅立った。彼の掌の温度も、私の肌からやがて消えていった。
ジーンが握ってくれた手を見ていた。
別れてから一週間ほど。今にも彼の訃報が届くかもしれない。だから、落ち着かない。
私の様子を見かねたのだろうか。我が家に一人だけいる侍女のマリアが、私へ声をかけてきた。
「お嬢様……あの男のこと、ですか?」
「珍しいね、マリアから話しかけてくるなんて。……あの男って、ジーンのこと?」
「はい。何か、視えたのですか」
「そう……だね。だから、もう、ジーンは……」
「そうですか……」
マリアは私の肩に触れる。慕わしげな仕草にも、久しく感じたことのなかったジーン以外の掌の感触にも驚いた。マリアの手は、彼よりもずいぶん細くて柔らかかった。
「それは……ようございました」
「え?」
マリアの言った意味がわからずに、その顔を注視した。言葉通りの安堵したような表情。言い間違いではないようだった。
「マリア、それは、どういうこと?」
「お嬢様が小さな頃は、この家にももう少し使用人がいたでしょう。……皆、あの男に」
「やめさせ、られたの……?」
それは、本当だろうか。私が一人になったのは、ジーンがそれを望んだから?
どうして、と呟く私に、マリアは目を伏せる。
「お嬢様は、あれのおかげで力を利用されずにすんだ、という面もあるでしょう。けれど、それだけでは……」
あの、悪魔は、お嬢様が──
そこでマリアの言葉はやんだ。つんざく音響に、掻き消されて。
彼女のブーツがたたらを踏んだ。その身体が傾ぐ。重い音を立てて、ついに彼女は床へ倒れる。
不吉な赤色が、絨毯をじわじわと侵食していく。
「ま、りあ……?」
「ひどいね、留守の間に陰口なんて」
「ひっ……!」
びくりと肩が竦む。
振り向くと、ジーンが普段と同じ微笑みで部屋の戸口に立っている。笑顔に不釣り合いな、ぼろぼろの格好だった。
右目と頭には包帯が巻かれ、片腕を肩から吊っている。右脚を負傷したのか引きずって歩きにくそうだ。そして、無事な方の手に握られた短銃から、細く硝煙が上っていた。
見つめる私と目が合うと、彼は笑みを深めて一歩、こちらへ近づく。
「ただいま、お嬢さん。一人で寂しくなかった?」
「な、なんで……」
「愛の力で帰ってきたんだ。大変だったよ。右目を吹き飛ばされてね、七転八倒した」
「あ、ひ、ひとごろし……」
その瞬間ジーンの顔から表情が脱落した。チ、と舌打ちの音。
「やっぱり、侍女なんて残すんじゃなかったかな……」
「み、みんなジーンが、殺したんですか……?」
「死んでないのもいるよ」
「どうして……」
「お嬢さんは僕の唯一だから」
彼は大股で残りの距離を詰めて、私の顔を覗き込む。蒼い瞳の奥で冷たい激情が渦を巻いていた。
「僕にはあなたしかいないのに、あなたにとって僕は有象無象の中の一人なんて不公平じゃないか」
僕のために泣いてくれる人は、この世界にあなただけなんだよ。
ジーンの顔が歪んだ。身体がこわばって、彼の片腕だけの抱擁を私は拒めない。
触れた途端頭の中へ新たな死期が流れ込んだ。
血と肉と断末魔。胸を塞ぐ血臭。くらくらするほどなにもかも赤い。ひどい光景に思わずえづいた。
彼の硝煙の匂いのする手が、私の髪を撫でた。
「僕が死ぬとこ、また視えた? ……嬉しい?」ハハ、と耳元で乾いた笑い。「でも、残念。僕は絶対に死んであげない。あなたを残して死ぬものか。この身体がどうなったって、お嬢さんのそばに、しがみついてやるから」
私の髪を梳く指の温度が恐ろしい。けれど私は、彼の背へ腕を回した。
だって、ジーンがこれほど歪んだのは私のせいだから。私が最初に、同情なんてしなければ、彼はただ空虚に死ぬだけで済んだのに。
ああ、ジーンこそが私の運命で、私のための地獄だ。彼にとっての私が、きっとそうであるように。
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