人の本質というもの 記憶喪失青年×大学メイト

数日ほど所在不明だった友人の春が記憶喪失の状態でケロリと戻ってきた。以前から浮世離れした人間だとは思っていたが、どこかに記憶を落っことしてくるほどとは、ほとほと呆れてしまう。

とはいえ、人の本質はそう変わらないものらしい。春とは、記憶をなくす以前とさほど変化のない関係のままだ。向こうは私のことを全く覚えていないのに会話が弾むのが不思議である。

「おはよ〜、葵。頬のガーゼ取ったんだね」

「おはよう春。そう。痣、治ってきたから」

「転んだんだっけ? 大変だねえ、顔に傷なんて」

「うん。ガーゼを貼っても貼らなくても目立つし」

頬を手の甲で擦る。黄色くなってほとんど目立たない痣。ひどく打ったのだ。ため息をつく。

「春は、迂闊だ、ほんと。今が大学の長ーい夏休み中だからまだいいものの、秋から学校通えるの?」

「わかんないなあ。記憶、戻るあてもないし」

「その割にのんびりしてる」

「なんか、取り戻さなきゃって気になれないんだよね、どうしても」

「でも、私は春がいないと困る。休んだ時のノートとか、春頼りだったし」

「そうなの? じゃあ、記憶がどうなっても、とりあえず学校行こうかなあ」

「またそんな、他人本位で決めて……」

春はいつもそうだった。優先順位において、自分より他人を上に置く。私はそれに存分に甘えて学生生活を送っていたけれど、こんな時まで他人優先で物事を決めるべきではないだろう。

むう、と唸る。とにかく記憶を取り戻させれば万事解決なのだ。拳を握り、天へ突き上げる。

「よし! じゃあ今日も気合い入れて、記憶を探しに行くぞー」

「お〜」

日が照りつけて揺らぐアスファルト。私は勇み足で一歩を踏み出し、どこか締まらない歩調の春が私の後をついてくる。


コンビニで春がよく買っていたものを片っ端から購入し、イートインで食べさせてみたものの、収穫はゼロだ。なにか思い出すどころか、彼は買い込んだ食物の5、6割を私へ分け与えようとする始末。

食べて楽しむためじゃなくて、思い出すために買ったのだと何度言ったらわかるのか。確かにどれも私の好物だけれども。

「でもさあ葵、おれ、別にシュークリームもドーナツも唐揚げも、そこまで好きじゃない気がするよ」

「ええ? あんなにしょっちゅう買ってたのに」

「うーん、わかんないけど。でも、葵は全部好きなんでしょ? だからじゃないかなあ」

「買うものまで他人基準だったの……?」

そういえばほとんど毎回、私は春のおこぼれをもらっていた気がする。

弱った。好きだったものを手掛かりに記憶を引きずり出す計画が頓挫寸前だ。

肩を落としてコンビニを後にする。しばらく行ったところで、春が何かに反応して顔を明後日の方に向けた。

「春?」

「鳴き声、が……」

「鳴き声?」

「犬の。……おれ、ちょっと見てくる。葵は先に帰ってて」

「えっ、ちょっ──」

止める暇もなく春は駆け出してしまった。少し逡巡してから、私は結局春を追いかける。正直運動は苦手なので、早い段階で春のことは見失ったけれど、その頃には私にも犬の悲鳴のような吠え声が聞こえていた。それから他の、大人数のざわめき、足音。

走るほど道幅が狭くなり、日の差し込まない路地へ変わっていく。薄暗くて嫌な感じだ。自分の荒い息が耳についた。

脇腹の痛みに顔をしかめたところで、ぎゃん、とひときわ高い悲鳴がした。

「は──、な、に……?」

多分あそこだと見当をつけた路地へ近づいたときには、あたりは、しん、と無機質に静かだった。さっきまで確かに、人の気配がしていたのに。

「春……いる?」

暗がりを恐る恐る覗き込む。一人立つ誰かがシルエットになっている。顔はほとんど影になって見えないけれど、体格からして多分、春だ。

春、よかった、と路地へ足を踏み入れた途端、浅い呼吸が私を取り囲んだ。

は、は、と絶え絶えの喘鳴たち。よく見るとアスファルトの上には、たくさんの人たちが伸びていた。鳴き声の主であろう犬も、地面に伏せて弱々しく腹を上下させている。

どうしてこんなに人が倒れていて、どうして春だけが立っているの。訊こうとした。それより先に、ふらり、と春が私を向いた。

「っぁ……?」

背中がビルの壁面に押し付けられる。首に春の大きな手がかかっていた。熱い吐息が降ってくる。ぎゅっと、彼の手に力がこもる。

はる。はる。くび、息、できないよ。

もがいて引っ掻いた春の手は、関節のところがひどく内出血しているようだった。ぎりぎり締め上げられてつま先が地面から離れそう。潤む目をしばたき春を見上げる。眉を寄せて、真っ赤に紅潮した頬。

目の前が白くなり始めてやっと締め上げる力が緩んだ。

腰が抜け、地面へ腰をついた。太ももに砂利が食い込む感触。

「ぇほっ……は、はる……」

「ああぁあ、だめだ、おれ、葵」

春は私の首を絞めた手で顔を覆い、しゃがみこんだ。地面に座る私と目の高さが合う。

指の隙間から覗いた瞳は、蕩けて上気して、酔ってでもいるようだった。

「春、どうし──」

「おれ、犬も、葵も傷つけるつもりなかった。大事にしたかった。なん、だって、あげたかったのに」

はは、と乾いた笑い。私の手首を掴む。強く、骨が軋む力で。

「い、た……」

「痛いね、ごめん、おれ、でもさ。葵、葵、だめなんだ、おれ止められなかったんだよ殴るの」

「春、なに言って」

「おれ、葵の首絞めてるあいだ、勃起してたよ」

私を見るともなく見つめる春の目の中には獣慾が燃えていた。発情期の動物みたいに昂ぶった目だった。

苦悩するように眉根を寄せて、それから私の手首を離す。自分の腕に強く爪を突き立てている。

「こんな、おれ、こんな記憶、思い出さなければ──」春はそうして、茫洋とした表情で立ち上がった。「そっか」

また忘れればいいんだ。


春がいなくなった路地で私は座り込んでいた。喉を押さえ、軽く咳き込む。未だに違和感のある首筋には、きっと春の手の痕が残っている。

「湿布を貼れば、ひどく寝違えた人で済む、かな……」

なんにせよ、隠しても隠さなくても、しばらくは人目を引いてしまうだろう。

昨日までガーゼを当てていた頬に触れた。消えかけの黄色い痣がそこにある。

春。記憶を何度無くしても、人の本質は、案外変わらないものなんだよ。

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