知らないなんて言わないで 少年×幼馴染少女
「私は、いつでも郁沙の味方だからね」
「……ほんと? 真澄ちゃん」
「うん! ほんとだよ」
そう言って、私は幼馴染の肩をぎゅっと抱きしめた。
幼馴染の早川郁沙は、人見知りの少年だった。私を含めた何人かとしか話すことができず、小学五年生の夏、ついにいじめの標的にされた。
初めの頃、私は郁沙に約束した通り、ずっと彼の味方でいようと思っていた。見かけたら割り込んで止めよう、なんて。
すぐにそんなことは考えられなくなった。想像していたよりずっと、彼へのいじめは苛烈だったから。
結局、郁沙が無理やり下着を降ろされていようとも、雑巾を食べさせられていようとも、私は何もできなかった。
だって郁沙にそんなことを平気でする人たちだ。目をつけられたら、何をされるかわからない。みんなそう思っていた。その頃の教室は、郁沙の周り以外で喋る人なんていなかった。
ある日、教室でいじめの主犯格に話しかけられた。びくりと肩がすくんだ。
「河野、おまえ郁沙の幼馴染なんだっけ?」
「あ……」
胸を張ってそうだと言えたらいいのに。怖い。
「郁沙みたいなのとつるんでるヤツにさ、学校来てほしくないんだけど」
どーなの? とうつむいた顔を覗き込まれて、逃げられなくなる。
とっさに、首を横に振っていた。
「ち、が……知らない……っ」
「郁沙のこと?」
「っ……」
罪悪感に唇を噛んだ。
私の回答はぎりぎり及第点だったのか、彼の顔が離れていく。そして彼は、半身だけ後ろを向いて言う。
「だってさ、郁沙」
「え……?」
少し離れたところから、郁沙が私を見ていた。郁沙をいじめる少年なんて目にも入らない様子で、私だけを視線が貫く。昏い瞳。
声はなく、彼の唇が動いた。
うそつき。
謝る暇もなく、郁沙はすぐに身を翻す。階段を駆け下りていく足音が聞こえた。
そしてそれが郁沙を見た最後だった。しばらく後に担任の先生が、彼は転校したと教えてくれた。
入学式以来初の登校日で、教室は浮ついた雰囲気だった。高校一年生になりたての私たちにとって、友達作り以上に大事なことはそうそうない。
私も隣の席の子とそれなりに気が合いそうで、ひとまずほっとした。彼女と連絡先の交換をしていた私の肩を、とんとん、と叩く手があった。
振り向くと、立っていたのは身綺麗で爽やかな印象の男子生徒。さらりと揺れる黒い前髪も、頬に浮かぶ整った笑みも清潔感があって、男女ともに好かれそうだ。何の用だろう、とキョトンとしてしまう。
ねえ、と彼が口火を切る。
「俺のこと、覚えてる?」
「えっ、と……? あの、わかん、ない、です」
──答えた瞬間、ぴくり、と彼の口の端が引き攣った。それは気のせいかと思うほど短い時間の出来事で、すぐに綺麗な笑顔が頬に戻る。
「……早川郁沙って、記憶にない?」
「え、い、郁沙……!」
ガタ、と思わず立ち上がった私へ、何人かの視線が集まった。恥ずかしくなって座り直す。
言われてみれば面影はあるものの、あの頃とは印象が真逆だった。堂々とした立ち居振る舞いに、昔のおどおどした様子は全くない。
郁沙の名前で思い出すのは最後の日のこと。私が彼を裏切って、絶望させてしまった日。二度と顔も見たくないと思われていて当然なのに、向こうから話しかけてくるなんて。
「あの、あの……郁沙、ごめんなさ、」
「何が?」
「私……知らない、とか、言って……」
「……いいよ。あそこで俺のこと庇ったら、君が標的になってた、だろ?」
「で、も」
「気にしてない。真澄も、気にしないで仲良くしてよ」
ためらいつつ頷くと、郁沙は「じゃあね」と言い残して颯爽と去っていく。
高校の友達が一人増えた、と思っても、いいのだろうか。本当に、郁沙は大事な友達だったから、あの頃のように話しかけていいのであれば、それはとても嬉しいことだった。
昔から先生に頼まれごとをすることが多かったけれど、それは高校でも変わらないらしい。
放課後、クラス全員分のノートを抱えて歩いていると、知らない男子の輪の中に郁沙を見つけた。談笑中の彼と目が合う。気まずくて素通りしようとしたのに、郁沙はふらりと輪を抜けて私の隣に並んだ。
「真澄、何そのノートの束。生物?」
「い、郁沙。うん、準備室に運んでおくように頼まれたんだ。後で見るからって」
「ふーん。……俺も持つ」
「え」
抱えたノートの上から三分の二ほどを奪って、生物準備室ってあっちだっけ、なんて訊いてくる。
「そっちだけど……いいの? その、お友達」
「いいよ、別に。だって重いでしょ」
「うん……ありがとう」
「……どういたしまして」
ふい、と顔を背けて、郁沙は私より少し先を歩く。歩幅が、昔とは全く違う。小走りになって背中を追いかけた。郁沙に先導されるのは新鮮で、目の前の背中は私より広くて、心臓が騒がしかった。
生物準備室は先生がこっそり吸っている煙草の匂いがいつも薄く漂う。生徒も誰も、用がなければ立ち入らない区画にあるからだろう。
窓の前に標本棚が置かれていて部屋には日差しが足りない。机上に細く落ちた日光が眩しかった。
机にノートを置く私の後ろで、郁沙がドアを閉める音。──次いで、施錠音が、凝ったような静けさの中に響いた。
振り向くと、郁沙もこちらを向くところだった。俯き気味の頬に睫毛の影がうっすら落ちていた。表情がわからない。初めて会った人みたいで、怖い。
唇が、小さく震えた。
「……郁沙? なんで、鍵閉めるの……?」
「外から開けられないようにだよ。決まってるだろ」
つかつか、大きな歩幅で迫ってくる。あっという間に追い詰められて、腰が机に乗り上げた。両方の手首を掴まれる。
机の上に上体を磔にされて、そこからは、もう。抵抗なんてする余裕も。
胸の膨らみの上に、郁沙の汗が落ちて流れた。ネクタイと手首が擦れて痛む。私の腿裏を押さえる、郁沙の掌の熱さ。ずり上がったスカートがお腹の上に溜まっている。自分の脚が天井に向かって、ゆら、ゆら、揺れていた。
異物が身体のなかをずるずる動いている。お腹の底が痛くて勝手に涙が出てくる。
窓からの日差しが私の頬をぬらす。太陽が私を見ている。こんなに情けない私の姿を。いやだ。
「や、だあ……!」
「……やだって泣く権利、真澄にはあるの? ねえ、なんであの時俺を見捨てたの?」
「ひ、郁沙、ごめんなさ、ごめんなさいっ」
「あはは! もっと謝れよ。俺、真澄に狂わされたんだよ人生。……本当は、俺はこんなことしたくなかったッ」
短く、呻くような声。郁沙の汗に濡れた腹筋がうねる。悩ましげにひそめられた目が、涙と鼻水まみれの私を見下ろす。
「なあ、真澄苦しい? わかるよ、はは、あはは、ざまあみろ……!」
ぽたぽた、落ちてきた滴が私の肌を這う。
泣かないで。
こんなにひどいことをしているくせに、私のせいで泣かないで。
縛られたままの手では、慰めることもできないのだ。
眠ってしまった真澄の目元には乾いた涙の跡が残っていた。薄く開いた唇に、強く噛んだのか血が滲んでいる。
彼女の乱れた着衣を直して、顔にかかった髪を払いのけてやった。手首のネクタイを解くと、擦れて赤くなっている。痕を軽く撫でてそのまま手に指を絡めた。
彼女が寝ている間じゃないと、こんなに優しく触れない。俺より小さくて皮膚の薄い手だ。激しい後悔が胸を灼いていた。
本当はあの時、いつでも味方だって言ってくれただけで充分救われていたのに。こんな風に暴いて、貶めたかったわけじゃない。
それでも真澄が目を覚ましてその目で俺を見ると、見捨てられた時の気持ちが蘇るのだろう。憎い。気が触れるくらいぐちゃぐちゃにしてしまいたい。二度と知らないなんて言えないように、俺を刻み付けてしまえたら。
真澄、俺はもうだめだ。あの時からずっと壊れてるんだ。
「俺から逃げてよ。頼むから……」
握った手は離さないまま。逃す気もないまま俺はそう言う。
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