魔王

「ヘズ!」

「殿下!」

「だめだ二人とも、霧から離れろ」


 緑色の霧の中に手を突っ込みヘズを助けようとするライラとラッリを、ペルケレが止める。

 剣をふるう音やうめく声がしばらく聞こえた後、静かになってしまった。緑色の霧はその場に留まったままで、外側にいるライラ達からは何も見えない。


「近寄るなよ、ライラ。変化の過程で巻き込まれたら計画がおじゃんだ」

「だってヘズが死んでしまうかも!………計画って何?」

「死にゃしないから大丈夫だ」


 ライラはペルケレを持ち上げて、悲鳴混じりの声を上げながらそのまま締め上げた。


「どういうこと!?」

「ぐえっ…だ、大丈夫だって、あ、ほら晴れて来たぞ」


 ペルケレの言う通り霧は徐々に晴れていく。そこに神は居らず、ぼうっと虚ろな目をしたヘズだけが立っていた。顔からは赤い蝶のような紋様がすっかり綺麗に消え、顔に少しかかる程度だった金髪が腰のあたりまで伸びている。思わず抱き着こうとしたライラが異変に気づいてたたらを踏んだ。


 顔は本人のものだが、森の神に乗っ取られている可能性もある。ライラたちは恐る恐る声をかけた。


「ヘズ?」

「殿下、大丈夫ですか?」


 ゆっくりと顔をライラたちへ向けたヘズは何度か瞬き、目に光を取り戻す。


「あ、ああ。頭がぼうっとしているが体は何とも……って、何だこの髪の毛は」


 言動から間違いなくヘズだと確認でき、安心したライラはほっと溜息をついた。


「呪詛の紋様が消えているわよ。呪詛封じの魔術を解いてみるわね……あら、消えてる?」


 ヘズの首元に手をやると、ライラの掛けた呪い封じの術もさっぱり消えていた。そんなことになればライラが気付かないはずはない。強引に解かれたのではなく無効化されてしまったようだ。

 森の神に掛けていたものも、すでに光を失って跡形もない。


「何だか変なんだ。とてつもない魔力を得たような感覚で、体中が熱を帯びているような。自分が自分であると言う意識はあるけれど、人間では無くなってしまった様な感じがする」


 ヘズが言う症状に、ライラは自分が魔女になった時を思い出していた。慌ててペルケレを見やると、ちょこんと偉そうに澄ましニイッと笑う。


「その通り。やるなぁ、ヘズ。魔王になっちまうなんて」

「「「魔王?」」」


 三人の声がそろう。


「神を殺したら魔王。これ、常識だろ。俺より偉いんだぞ。喜べ」

「魔王って、あの勇者に倒される魔王ですか?」

「まあ、これからどうするかによるな。魔女と同じで偏見の目で見られるだろうが、ヘズのした事は善か悪かで言ったら善だろ」


 ペルケレの理屈では、あの神は誰かに善神として崇められていたわけでもない。フォレスタリアを滅ぼした直後に眠りについてしまい、邪神にもなり切れていなかったので名目上ヘズは魔王になってしまった。


 実はペルケレが話し合いで説得すればヘズは魔王にならずに済んだのだが、ライラの為にヘズに切らせた。うまくいけばライラと共に長い時を歩む者が誕生するからだ。


 ヘズには口が裂けても言えない。ペルケレは悪魔である。

 そんな考えを微塵も知らないライラは珍しくおろおろと狼狽えた。


「ご、ごめんなさい、私のせいで。もっと冷静になればよかったのに」

「大丈夫だ。あの神の言い草は耐えられなかったからな。でも魔王となって何をすればいいのか……私は目が見えるようになったのならライラと国に帰るつもりだったんだが、今はもうそんな気はしないからな」


 なってしまったものは仕方ないと割り切り、ヘズはこれからの事を考えた。見えない状態であったら異国に解呪の方法を探しに行くつもりだった。でもそれは解決できてしまった。


「好きにしたらいい。魔術は何でも扱えるようになるし、ヘズは初代でなり立てだからまだ治めなければならない国なんてない。良かったな、ライラ。これでヘズも不老長寿だ。石も無くなってクレルヴォの呪いも解けてめでたしめでたしだ」

「……え?」


 ライラは思わずヘズを見る。

 ヘズに対してライラを躊躇させる不安要素の一つ、ヘズの老いと限りある時間が消えた。更に自分をこの地へ縛りつけていたものも無くなってしまった。


 急に開けた未来に戸惑いながらもライラは理性を総動員する。意識し始めたらきっと余裕なんてなくなってしまうと思いながら。


「ヘズ。まずは……有り難う。本当は封じていた石を勝手に破壊されて怒っていたのだけど」


 石を壊せると思ったからの行動だろうが、下手をすれば森の浸食が再び始まっていたかもしれない。そうなれば本当にライラの行動が全て無駄になっていた。

 ヘズは済まないと頭を下げて謝った。


「相談しようとすれば絶対に反対されると思った。何が起こるか分からなかったし、やるなら一人でと思ったんだ。ラッリが居たけれど」

「死ぬかもしれなかったのよ」


 ぽつりと不安げに洩らすライラに覚悟の上だったとヘズは笑った。


「行動で示したかった。ライラの問題を解決すると口先だけでは何とでも言える。でも、ライラにそんな男だと思ってほしくなかった」


 ヘズはライラの手を取った。


「これからずっと、ライラの隣で胸を張って歩ける。自分が年をとって死ぬまでと思っていたけれど、制限が無くなってしまったな」


 アイスブルーの瞳が細められ、ライラの胸は期待に膨らんだ。五百年と言う年月を経て少しばかりすれてしまった恋心が、ほんのりゆっくり若さを取り戻す。


「ライラ、一緒に―――」


 ヘズの言葉を邪魔するかのように、天井の塊がすぐ傍にガツンと落ちてきた。続いてパラパラと欠片が降り注ぎ、ずずずと不気味な音が聞こえる。

 ライラが辺りを不安そうに見回した。


「な、なに?」

「神がいなくなったからな。森が消えるんだろ」


 城にはたくさんの木々が絡みついている。玉座の間から見える部分は黒く枯れてどんどん細くなっていった。剥がれ落ちた天井によって埃が舞い上がり始めている。

 焦ったライラはペルケレに問いただした。


「森が消えるって全部?城が崩れてしまうわ」

「あー、最初の仕事だ魔王様、とりあえず城を直せ」

「なんで命令形なんですかっ?ってそうじゃなくて先に逃げないと」

「ラッリ、しゃべるな。ペルケレ、どうやればいい?」

「元に戻る様に念じろ。後は城が覚えているはずだ」


 ペルケレが答えるとヘズは目を閉じた。ライラも驚くほどの魔力が広がり始め、城全体を包み込む。剥がれ落ちた壁は元に戻り、壊れた扉も綺麗に直された。扉の代わりに使っていた抜け道も塞がっている。片端から修復されていく城をライラが呆然としながら眺めていた。

 直しているのはヘズなのに、なぜかペルケレが得意げにしている。


「自分でやっておいてなんだが、凄いな。魔王ってこんな事も出来るのか」

「勿論限度があるけどな。ヘズが直したからヘズの城って事で構わないよな、ライラ」

「こんな、こんな事って―――」


 ライラはいつの間にか流れ落ちてきた涙を何度も何度も拭う。木々が邪魔をして直せなかった過去の思い出の詰まったこの場所を、ヘズがいとも簡単に直していく。絨毯は鮮やかな色を取り戻し、埃っぽかった空気すら新鮮なものに変わっている。

 五百年と言う歳月を感じさせぬ、いや、それ以上に新しく生まれ変わった城。


 昔と変わらぬ光景には父も母も弟も存在しない。ライラに仕えていた騎士も侍女もいない。蘇ったのは入れ物だけ。

 けれどヘズが、ペルケレやラッリがここには居る。

 ヘズが、外へ出て他の部屋も確認したいとうずうずしているライラの手を取った。


「ライラ、案内してくれないか?」

「いいわよ!まずは―――」


 二人で出ていくその姿を、ペルケレと感極まったラッリが追う。


「殿下が一城の主……!ついて来てよかった」


 部屋を出ていく間際にペルケレは振り返り、誰もいない玉座に向かって呟いた。


「求める代償がでかすぎたんだ。俺と違って堕ちる前に退治されたんだから喜べ」

「ペルケレ殿、何か言いましたか?」

「いーや、なんでもにゃー」


 ペルケレはとてとてとラッリと共に玉座の間を出た。





「ここが私の部屋よ。壁や天井だけでなく調度品まで綺麗になってるのね」

「今の流行と随分違うんだな」

「そうなの?古臭いかしら?」

「いや、今の方が安っぽい感じがする。こちらの方が気品があって良い……私が入っても良かったのか?」


 家族と仕える者以外の異性を入れたのは、昔も含めて初めてだった。ヘズの言葉に気付かされて、ライラは途端に意識し始める。


「あ、案内しているだけだもの。二人が来ないわね。迷子になったのかしら?」

「それならそれで構わない。ライラ、窓の外を」


 構わないってどう言うことと思いながらライラはヘズに促されて窓の外見ると、森がすっかりなくなって、ただただ遠くまで平地が広がっていた。下草などは生えているが、ライラたちが利用している家まで見えている。所々にある建物の残骸が、遠目にもはっきりと確認できた。


「どうする、街も戻すか?」

「いいえ、それは新しく住まう人が作り上げていくものよ。どんな風に変わるのか楽しみでもあるわね」


 そもそも細かいところまでライラは覚えていないし、建築技術が古いままでは災害に耐えられないかもしれない。ヘズの魔術で新たに造るとしても、それはヘズの知識によるものなので欠陥が出てくる可能性だってある。魔王の魔力だって限界があるはずだ。


「まずは人集めだな」

「周囲の領地とも折り合いをつけないとね」

「国とするかヒーシ国内の一領地とするか」

「緑がうっすらと広がっているから不毛の地では無いようね。農業も出来そう」

「外国から技術者も招こう。治水は……ああ、森に囲まれて見えなかったがあそこに川があったのか」

「人を育てる学校は外せないわ。魔力を持った人間が王族以外にもいるかもしれないし」


 骨の髄まで染み込んでいる王族の性なのか、窓の外を眺めながら二人は次々とこの地を治める案を口にする。どこか閉塞感の漂っていた時と違い、一気に開けすぎた未来にほんの少し戸惑いながら。


「本当にお兄様たちのところへは戻らなくていいの?」

「ああ。どうあっても和解できる気がしないから、ここで新しくやって行こうかと思う」


 ライラはふと、先程言っていたヘズの予定を尋ねながら横を見た。窓の外を眺めるヘズの横顔は、紋様が消えただけなのに随分と違って見える。呪詛を取り除くと言う共通の目的が無くなったが、同じ方を向いて歩けるのだと期待していた。

 じっと見つめてしまっている自分に気づき慌てて目を逸らすと、衣服のこすれる音と共にライラの体はヘズの腕に絡め取られていた。

 互いに向き合う形で、息のかかるほどの距離。自分の微熱が相手に伝わってしまわないか、心配になるほどだ。


「石を断ち切ったことを恩に着せるつもりは無いし、魔王になったのは私の自業自得だ。寧ろこの忌まわしい場所から離れたいと、ライラは思っているかもしれないが」


 神の報復をも恐れ無かったヘズの声が、わずかに震えている。

 二人を分かつ条件が消えて同じ場所に立った途端、相手が自分を受け入れるのかが不安になった。それはライラも同じで、ヘズの次の言葉を静かに待つ。


「ライラ、永遠に近い時を私と共に歩んでくれるか」


 アイスブルーの瞳にはどこか不安の影が落ちている。その影を取り除きたくて、ライラはとびっきりの笑顔で答えた。


「ええ、もちろんよ」


 ヘズは安心したように腕の力を強め、ライラの肩口に頭を沈めながら大きく息を吐き出した。ライラもしっかりとヘズの背中へと腕を回す。微笑みながらも、目じりにはきらりと涙が浮かんでいた。


 部屋には静かに日の光が差し込み、床に二人の影を落としている。

 ライラの五百年に渡る長い長い夜が終わりを告げた。

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