【6】[現代]記憶と記録

「おはようございます。識別番号GIN 111111112。本日8/20は晴天。最高気温は25℃、湿度は 70%。この時期にしては過ごしやすい天気となっております」


 機械的な音声によって、脳がゆっくりと覚醒し始める。耳からは音による刺激、まぶたの向こうからはほどよく射し込む陽光が降り注ぎ、覚醒が促進される。目を開けると、自動起床認識装置が作動し、室内の照明が一気に照らされ、ようやくわたしは起床する。


 “おはよう” と呼びかけてきたのは、家事から食事の世話まで、身の回りの全てを管理するAIの通称【アイ】。当然、アイという愛称もわたしがつけたものだ。


 アイはAIの中では珍しい人型ロボットであり、持ち主に必要な特性を反映している。例えば、


「おはようございます。識別番号GIN1111111112。本日は———」


「何回も同じこと言わなくっても分かるよ。アイは真面目すぎるんだから」


 この真面目すぎるほどの性格は、いわゆる“ ズボラ ” だとか、“ 間の抜けている ” わたしのために調整された機能である。


 空調からは、先程までリラックス効果のあるラベンダーの香りに包まれていた空間を一新するかのように、目の覚めるようなスパイシーなミントの香りが漂い始める。その香りを全身に浴びながら、わたしはおもむろに顔を洗い始める。


 だめだ。頭がぼーっとする。いつもであれば、この香りに包まれればすぐに脳が覚醒し、この日1日の予定がスッと思い出せる。寝起きは決して悪いほうじゃないはずなのに、頭が回らない。それどころか、頭の周りに丸い輪をはめられたように、ひどく締め付けられる感覚がする。


「先程から識別番号GIN111111112をいくらお呼びかけしても返事がいただけないので、すでに覚醒下にありながらも、未だ脳が正常に機能していないのではと判断いたしました。脳幹及び大脳新皮質に異常がないかを確認するため———」


「あーあー。分かった分かった。脳の機能は極めて正常。目はだいぶ前から覚めてるよ。それより、昨夜わたしを自室に連れてきてくれたのって誰?」


————42————


 しばらくだんまりを決め込んでいたアイが、予想外のことを言い始める。


「私には111111112が先程から何をおっしゃっているのか分かり兼ねます」


「え、と。だから、どうやってここに戻ってきたのかなぁって…って、1人で戻ってこれるわけないし…どういう意味?」


「111111112は昨夜深夜2:37に、ご自分の足によりご自宅に戻られました。帰宅後すぐに洗浄作業(手洗い、洗顔、着替え)を行い、すぐにベッドでご就寝。7時に通常通り起床後、現在に至るまで特に異常は見られません。通常、1分当たり平均12回の寝息、及び月1回程度の寝言を仰りますが、昨夜は一晩で3回、計37分もの長い間寝言を———」


「いやいや、そんな細かい報告はいいって。ってか、恥ずかしいからやめて」


「寝言では、通常時では平均して明るい内容をつぶやいているのに対し、昨日は一変し———」


「だーかーらー!もういいってば。あ、そういえば。今日はわたしの出勤日じゃなかったっけ?」


「昨日が急遽きゅうきょのご出勤だったとのことで、本日は半日休をお取りになったのではありませんか?海馬にある短期記憶野に所見では異常は見られませんが、精密検査を致しましょうか?」


「え…?わたしそんなにおかしなこと言ってる?あれ…昨夜確か任務に行って…戻って…あれ…任務から戻ってこれたんだっけ?」


 何かがおかしい。昨夜任務途中から、今朝起床するまでの記憶が一切思い起こせない。エルフとアインツが到着前に任務を終えて…え、どうやって任務を終えたのだったっけ?被験体Xと遭遇し、その後…何者かと接触したような、しなかったような………。


————43————


 いよいよ混乱し、頭を抱えたわたしを見兼ねたアイが


「111111112は混乱しているご様子。やはり脳の機能の精密検査を行いましょう」


と言うと、アイは1mほどの丸い体から小さな触手を取り出し、わたしの頭に幾重にも枝分かれした触手を接触させる。しかし、わたしは


「検査なんていらないから!」


とアイの触手を跳ね除けると、逃げるように寝室に戻り、クローゼットを開け、中から黒いスーツを取り出し着替えを始める。なぜだか、 今検査をされるのがひどく不快に思えたからである。


 着替えを済ませ、とっとと身支度を終えると、食事もとらずに慌てて玄関へと走る。


「本日のご予定は———」


「いや。もういい!」


《ナインワンに…ナインワンに確認しないと》


 わたしはゆっくりと薄れていく昨夜の出来事を脳裏に浮かべながら、なぜだか目頭が熱くなってくるのを感じていた。


 今、この瞬間にナインワンに確認して、すぐに彼のコンピューター並に優れた記憶と照らし合わせないと…


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 走馬灯のように、次々と過去の映像が脳裏に流れてくる。



2018年8月19日深夜23:37に過去へと降り立ったこと。


ナインワンと行く予定ではなかった任務へとおもむき、アインツとエルフと直接会わないようにし、任務を遂行させたこと。


被験体Xと遭遇し、手を差し伸べたこと。


ブラックフッドと呼ばれる何者かと遭遇したこと。


ブラックフッドと…ブラックフッドと…?なんだっけ?わたしは会ったのか?あれ…


被験体Xに倒され…倒され?被験体Xとわたしは接触したのか?あれれ… ?


そもそも、なぜわたしは過去に行ったんだったっけ?任務に行く予定だったから?


行かないはずだったような?


アインツとエルフは…どうなった?


それに、ナインワンは現代に戻ってなにかを言っていた…よな?彼はなんていってたんだっけ…?


口だけが動いてて、なにも聞き取れない!


ああ、大事なことを言っていたはずなのに、なにも思い出せない!!!



 意識がすっかり混濁していく中、耳に埋め込まれた通信機が振動したことで、ようやくわたしは意識を取り戻した。


————45————


「111111112、大丈夫か?」


 通信機により、脳裏にナインワンの心配そうな顔が映し出される。(実際のナインワンはいたって普段通りの無表情であるが)


「あ…ナインワン…どうして…?」


「別段用ということはない。ただ、何となくお前が俺を呼んだ気がしたから。いや、違うな。お前と今話さないといけない気がしたからだ。何かあった?」


「いや…わたしにも何が何だか…。ちょっと混乱してたみたいだ。あ、そうだ!昨夜の任務内容覚えてる?」


「昨夜の任務については、お前もさすがに覚えているだろう」


「なぜだか詳細が思い出せないんだよ。頼む、ナインワン」


「仕方のないやつだ。CE(西暦)2028/08/19 23:37現地時間に到着後、任務開始。被験体Xを目視、111111112の単独での追跡開始。8分経過後に被験体Xの活動停止を記録。0:49に無事任務を完遂。97000001と120000011と合流後、彼らに現場保存及び記録任務を引き継ぎ、我々は現代へ帰還———」


「え、ちょっと待った。わたしは被験体Xと接触したの?あ…接触はしたのか。そこまでは覚えてる。活動停止って?そこを記録したのは…わたし?」


「は?なにを言っている?お前が倒れているすぐ側に、被験体Xの亡骸なきがらが転がっていただろう?俺がお前に声をかけたら、お前は起き上がって冷静に報告をしたじゃないか」


————46————


「起き上がって…?わたしが?あれ…そうだっけ?」


「いや…ちょっと待て。俺にも記録とは違う別の記憶が…」


 そう言うと、普段一切迷うことのない鉄面皮のナインワンがうつむき、顔をしかめると、何かを考え始めた。


 しかし、ものの10秒もしないうちに顔を上げると、普段通りの冷静沈着な “ナインワンらしい” 表情に戻っていた。


「被験体Xとは、そもそも我々は接触する予定ではなかったはずだ。 97000001と120000011の両名を救出しに、我々は過去へとおもむいたのだったな。そして、事件の起こる時間なども大幅にずれ、1時間以上も前倒しした。さらに、お前が被験体Xに手を出し噛まれそうになったところに、ブラックフッドと目される黒いフードを被った人物に救われたのではなかったか?」


「ブラックフッド?それって誰のことだっけ?」


「は?笛を吹いた黒いフードの人物がいただろう?それに、お前が倒れて起き上がった後に言ったんだろうが。“ブラックフッドに助けてもらった” と 」


 ナインワンの顔を見ながら、わたしは自分の中に1人の人物の顔が鮮明に記憶されていたことを思い出した。



黒いフードの下から覗く、月明かりに照らされた銀色の髪の毛。


手には長さ1mほどの鋭利な刃物。そこから滴る鮮血。


華奢きゃしゃな左腕は、今にも体から切り離されそうに、ぶらぶらと揺れている。


その人物が怪しく光る真っ赤な宝石のような瞳で、わたしを見下ろしていたではないか。


————47————


「そう!そうだ!ブラックフッド!大変なことを思い出した!何でこんな重大なことをわたしは忘れていたんだ!ナインワン、あのブラックフッドはあれだよ、あれ。あああ、華奢で銀髪で、手に牙が食い込んでて大変な状態なのに、わたしを助けてくれようとして。赤い瞳が綺麗で———」


「落ち着け、ツー。お前の話は支離滅裂で、少しも要領を得ない。順序立てて説明しろ」


 わたしは大きく深呼吸をすると、蘇ってきた記憶の断片を手繰たぐり寄せ、しっかりと太い糸に束ねるようにして、ゆっくりと確実に脳の記憶野に編み込んでいった。


「まずわたしはナインワンと別れた後、別行動をして被験体Xを追いかけたでしょ?わたしは被験体Xを追いかけ、ブラックフッドは被験体Xに追いかけられていた。で、ブラックフッドが研究所の塀の外に飛び去ってしまった後、気づけばわたしは被験体Xにのしかかられていて。目をつぶった瞬間、塀の外に逃げてしまったはずのブラックフッドが、身をていして助けてくれたんだよ。自分の腕を犠牲にしてさ!」


「ふむ。ブラックフッドが我々を助けたのは、少なくとも2回はある。ということになる」


「それだけじゃないよ?ブラックフッドは、当初は研究員の噂話や記録を含めて男性だとされていたけど、わたしが見たブラックフッドは…ブラックフッドは…」


 そこまで言いかけて、わたしは再び記憶が混濁していくのを感じた。


 頭の中にはもやがかかり、手足は震え始め、この後発する言葉を自分の体全体で阻止するかのように口から言葉が出てきてはくれない。


「ブラックフッドは?何だって?」


「だから…ブラック…フッドは!」


「ツー、お前息するの忘れてるぞ。ほら、深呼吸して、落ち着いて話せ」


「はぁ。はぁ…」


————48————


息を整えると、明瞭になった記憶の束が、わたしの頭の中を整え、全ての事象を把握した。


「ブラックフッドは、わたしが13年前に———」


《助けた女の子だ!》


 わたしの中では、言葉を発したはずであった。


 しかし、現実はわたしはパクパクと口を動かすだけで、泡を吹いたようにして倒れる寸前だったらしい。


と、後にナインワンは語る。


 そして、この時を境に、わたしの中に2つの記憶が存在することになる。


 ただ、全ての事象を把握した頭脳だけは、その後何年もの間取り戻すことはできなかった。


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タイムキーパー 月冴(つきさゆ) @Tsukisayu

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