【5】真の役割
「我々は殺人事件を、いわば
そう言って話し始めたナインワンの整った横顔を見ながら、わたしは絶対服従の力に身体を縛られたまま、全身に冷たい空気が降りかかってくるのを感じていた。
扉の向こうでは人々の叫びや怒号、恐怖や怒りで場内は
わたしの中には、さっきまで
この無気力なまでの無力感を、昔の人々はなんと呼んだのだろう。
「…まあ、それ以上のことはお前は知らなくていい」
肩を叩くナインワンの
「終わったようだな…いや、まだか!避けろ!」
とナインワンに突き飛ばされたことで、ようやくわたしは正気を取り戻した。
と同時に、目に飛び込んできた映像に
————34————
勢いよく食堂の扉を跳ね上げ、中から飛び出してきたものは、宙に浮いた人間が3人。正確には、何者かに飛ばされた人間であろうか。
「なぜ?なぜ助けてくれない!?」
と。その口元も、次の瞬間には見えない何かに吸い込まれるようにして、見えなくなった。
シューシュー、と見えない何者かは荒い息を吐き、その身からは獣臭と殺気を発している。
「ひいいいい!助けてくれ!」
と逃げ出す2人の叫び声が遠ざかっていく。しかし、さっき目の前の男を飲み込んだ被験体Xの息遣いは、ゆっくりとわたしに近づいている気がする。
「おい、111111112!何を呆けている!早く逃げないか!」
ナインワンの声が通信機を通して聞こえるのに、わたしは見えない獣から目が離せなくなってしまった。
なぜだか、少しも恐怖を感じない。それどころか、言いようのない違和感が身体の内側を掻き
これは目の前の生き物に対する
《そっか。君は怖いだけなんだよね?》
「大丈夫。怖くないよ」
この生き物を見ていると、なぜだか胸がひどく締め付けられる。と同時に、目頭に何か不思議なものがこみ上げてくる。
《わたし…この感情…知ってる》
「ほら、おいで」
その獣の荒い息とわたしの呼吸が、少しずつ確実にシンクロしていく。
そして、何かが指先に触れた。そんな気がした。
————35————
「おい、2!おかしくなったか!?ったく!」
カチャという乾いた音がし、ナインワンの方を向くと、彼が
——— 銃だ ———
ナインワンは銃を被験体Xに向け構え、今にも発砲しそうに鋭い視線を向けている。
「2。いいか、その場を動くなよ?今助けてやる」
「ナインワン?大丈夫だよ。ほら、この子こんなにー」
と再び手を差し出そうとしたとき、廊下の向こう側からピューという高音が発せられる。
グルルルル…
口笛の音を聞きとった被験体Xは、穏やかだった様子が一変する。突然
そして、わたしの真上に
暗い廊下の先にいた人物を目視し、わたしとナインワンが同時に叫ぶ。
————36————
「ブラックフッドか!」
その者は全身黒に身を固め、ぴっちりとしたパンツに上は大きめのフードを被っている。顔は黒いマスクで覆われており、手にも黒い手袋をしているが、アインツの映像で見た人物と見て間違いないだろう。あの印象よりやや大柄に見えるが、今はそんな
黒いフードの人物は、被験体Xの興味を引くことに成功したと分かると、
その黒い人物の背を追うようにして、被験体Xも走り去ってしまう。
「2!お前はブラックフッドと、被験体Xを追え。私は食堂に生き残りはいないか確認後、すぐに追いつく。遠くから監視することに
「分かった!」
ナインワンと目配せを交わし、目のカメラレンズを高精度暗視モードに切り替えながら、すでに屋外に出て行ってしまったブラックフッドと被験体Xを追う。
屋外に達すると、直後に5mはありそうな高い
ブラックフッドの背を追い塀まで追いついたであろう被験体Xが、塀を揺らす音だけがガタガタと響き渡る。
それに、玄関の
《もう、わたしに出来ることはなさそうだな…》
わたしは大きくため息をつくと、周辺の様子を記録し、ナインワンに報告をするために通信機で呼びかける。
「ナインワン?ブラックフッドは施設外に逃げてしまったみたいだ。2名の研究員の遺体を確認した。被験体Xは塀の内側にいる。わたしはこのまま見張っていればー」
「いや、確認済みならもういい。すぐにこちらで合流しよう…11111112?聞いてるのか!?」
————37————
ナインワンへの報告途中で、わたしは思いがけない事態に
見えない何者かに
《塀から入り口玄関まで、距離にして300mほどもあった。それを一瞬にして被験体Xは駆けてきたというのか?》
しかも、目の前にいる何かは、食堂前で遭遇した被験体Xとは明らかに様子が違う。
見えない体からは殺気が
《今、口を開けば、この獣に食われてしまうかもしれない》
両手は地面に押さえつけられ、首筋には獣臭い息と、時折生温かい
《どうする?一か
緊迫した状況に、少しも
《ああ…もうだめだ…》
————38————
覚悟を決めた瞬間、顔に生温かいものが注がれる。
《死とは、呆気ないものなのだな。少しも痛くない》
………………
てっきり、わたしは食われたのだと思った。
しかし、目を開けたわたしの視界に飛び込んできたものは
…………!?
赤…だった。
漆黒の闇夜にかかる赤いちぎれ雲
赤く
緑色の木々ですら淡く赤色を帯び
赤 赤 赤 赤 赤……………
目に映るすべてのもの
世界が真っ赤に染められていた。
————39————
{
男とも女ともつかないドスのきいた低音が、頭の中に響き渡る。全身の血液が一斉に沸き立つような衝撃が走り、わたしはその勢いのまま
全体重を獣にかけられていた腕は、いつの間にか自由を勝ち取り、迫っていると錯覚していた死期も、すっかり姿を消していた。
そして、何によって自分の命が救われたのか、その正体を目の当たりにする。
自分の座高より一回り大きい程度の身の丈を、精一杯広げるようにして腕を
頭をすっぽり黒いフードで覆い、ぴっちりした黒い革パンツに、
よく見れば、黒い手袋をはめた左手には何かが食い込むようにして、その形が
牙だ!黒いフードの人物の腕には、目視はできないが、確かに被験体Xの
しかも、顔に注がれた生温かい感触を手で
細い腕がわたしを獣から守るようにして、
————40————
「君!腕!腕が…!」
呼びかけたと同時に、黒いフードに大きな衝撃がぶつかり、
その人物の瞳を見て、わたしは再び言葉を失う。
それは、
《この瞳…どこかで…》
何かが記憶の奥底に眠っていそうな予感を感じ、
ギャアアアアアアア!!!
と断末魔をあげる獣の叫びによって、掻き消されてしまった。
赤い瞳の人物が右手に構えた刀が、被験体Xの見えない肉体にほとんど飲み込まれていた。
刀から伝い落ちる鮮血と、黒い手袋から足元へと
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