第2話 七転八倒(3)

 病室の外は先ほどの騒々しさが嘘のように閑散としていて、吉岡さんの肩越しにベッドの脇から盗み見た限り、誰もいないみたいだ。



吉岡さんはそのまま病室から出ていき、周りをキョロキョロと見渡すと、私に手招きをする。私はそれに従い、ベッドの脇から抜け出して吉岡さんの元まで駆け寄る。



「ここの廊下を進んで、右側に階段がある。今いるのは4階でみんなエレベーターを使うから多分人はいないはず、1階まで降りたら左に行くと病院の出入り口に出るはず」



吉岡さんは、静かにゆっくり逃走ルートの案内を伝えてくれる。なんでこの人は、こんなしっかり教えてくれるのだろうか。



「あの…吉岡さん」



「なに?」



「なんで吉岡さんは…」



「手伝ってくれるのかって?」



先読みされたその言葉、しかし、私が聞こうとしていたのはそうじゃない。



「吉岡さんは行かないんですか」



私の言葉に吉岡さんは目が点になる、的外れな質問だ。だけど、私は、私にはのだ、聞こえてしまった。



「社会に戻りたい」「誰の足だよ」「悔しい」「俺はまだ動ける」「俺も逃げたい」



憎悪にも似た、どす黒い声が、吉岡さんの千羽鶴に触れた頃から耳に流れて来ていた。



もういい加減、うっすらと分かってきた。多分、私には本音が聞こえているのだ、発せられた言葉と心で抱く言葉のズレが分かる。



吉岡さんは、私の目を見つめると、瞳が歪んだ。そして、吉岡さんはそのまま静かに頬を濡らした。はっと吉岡さんは自分が涙を流していることに気付いたのか、すぐ袖で涙を拭う。



「君は優しいんだね。でも、ごめん。僕は行けない。」



「どうして!」



本音が聞こえる、「行きたい!」と…



 そしてゆっくりと吉岡さんは足に触れ、私を見る。



「君には動く力がある。僕が無くしてしまったその強さが。」



「そんなの私が一緒に…」



「早く行きなさい」



吉岡さんは下を向く、その肩は小さく震えていた。



「分か、分かりました…ありがとうございました。」



世の中には、本音と建前がぐちゃぐちゃに入り乱れているのだ。



だから人は誰もが嘘をつく。でも、吉岡さんの嘘は寂寥感せきりょうかんに溢れ、私は、何もしてあげる事の出来ない無力さを感じ、目頭が熱くなる。



私は人に何もしてあげられることは無い。ここに来る前、私はどんな根拠があって、母の支えに、など…なんて浅はかな考えをしていたのだろうか。



私は頭を下げ、吉岡さんに背を向け、歩き出す。重い足取りは、後ろから駆られる気持ちに後押しされ、どんどん速くなり、走り出す。



心はぐちゃぐちゃで痛くて仕方なかった。

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