第33話 送り火に誓う②-1

 嵐山の大堰川(おおいがわ)を、無数の灯籠がゆるやかに流れてゆく。玲は亡父を、さくらも亡き実母をなぐさめるために、灯籠を流した。


 母のことは、いっさい覚えてはいない。それでも、自分をこの世に生み落としてくれたことを感謝している。涼一に守られ、玲に出逢い、類に翻弄され、大切でいとおしいすべての日々を。


 やさしいひかりを見ているだけで、涙が出てくる。

 先ほど、あんなに泣いたのに涙はまだまだ涸れない。


「さくらは泣き虫だったんだな」

「そんなんじゃないけど」

「だったら、止めてみろよ。ま、泣き顔もかわいいから好きだけど。もっと泣け、泣けって」

「意地悪だなあ、もう。灯籠がぼやけて見えないじゃない」

「夜で暗いのに、目が真っ赤。明日、腫れるかもな。帰ったら、よく冷やせよ」

「うん」


 からかいながらも、最後は気遣ってくれる玲はやさしい。


 午後八時過ぎ。

 手の届く場所に、玲はいつもいてくれたのに、どうして揺れてしまうのだろう。弱い自分が恥ずかしい。

 さくらの指には類の指輪が光っている。次に会ったら、類に聞こう。外してもいいか、と。うれしいけれど、やっぱり、左手の薬指にはできない。


 人々の輪に歓声が上がった。

 送り火の左大文字。やがて舟形が見えた。

 高さ規制があるとはいえ、建物が増えた現在、京の町を取り囲むようにして浮かぶ、五つの文字すべてを見ることは困難だ。

 ここ嵐山では、比較的近い『左大文字』と『舟形』それに『鳥居』が、低い位置にどうにか確認できる。大文字や妙、法など五つすべてを網羅したい場合は、駅ビルなどの高い場所でないと無理。しかし、駅ビルの屋上観覧は毎年大人気で事前抽選制だという。

 

「山が燃えているみたい」

「送り火は初めてか、さくら」

「うん。けっこう、近い文字は近いんだね。火をつけるのも、人なんだ」

「この火を見て還ってゆくんだ、あの世にご先祖さんが。いつ見ても、不思議だな。幻想的というか」

「いつか私も、死んだらあの火に導かれるのかな」


 玲は、さくらの頭をぽんとたたいた。


「当分まだ死なないだろ。お前、ほんとにおもしろいな。あの類ですら惹かれるのも分かるよ」

「それって、全然褒めていないよね」

「いや。褒めことばのつもりだけど?」


 さくらと玲は、送り火が完全に消えるまで大堰川のほとりに並んで座っていた。帰宅してしまうのが惜しかった。たぶん、玲も同じ気持ちだったと、さくらは思う。


 町家に帰って来たのは、十時ごろだった。

 さくらは、玲ともう少し一緒にいて話をしたかった。でも、こういうときなんて言ったらいいんだろう?

 ストレートに言ってしまうべきだろうか。後悔はしたくない。

 なんにも言わなければ、いつもと同じ夜。各自おふろに入って、寝る支度を整えたらおやすみなさい、だ。


「れ、玲……」


 覚悟を決めたさくらは、玲の手を強く握り直し、おずおずと口を開いた。たぶん伝わるとか、あいまいなことにはしたくない。


「どうした?」


 玲はさくらの顔を覗き込んだ。そのしぐさに、どきりとする。


「もっと一緒にいたい。話がしたい。そばにいてほしい」


 類も京都へ戻るようなことを言っていたけれど、時間的仕事的にどうなるか。今夜は、朝まで、玲とふたりきりになれるかもしれない。


 玲は、明かりをまだつけていない町家の中でも、表情がわかるぐらいに苦笑した。続いて、大きくため息をついた。


「おいおい、お前……気持ちはうれしいが」

「あ、あのね。ごめん! 玲の本気度を試しているような誘い方をしちゃって、ほんとにごめん。でも、話がしたいの。まだ、たくさんあるの。だから」

「さくらは、男の性欲とはどんなものかをもっと学んだほうがいいな。勉強はできるのに、そのへんが無知なのは困ったものだ。その場の勢いには流されないよう、俺は全力で気をつけるけど、生殺しは俺の心身に悪い。とても悪い」


 そう言って、玲はさくらの頭をぽんぽんとやさしく撫でた。


「ごめんなさい」

「いや、でもうれしいよ。さくらの気持ち、ちゃんと口にしてくれて。ふろ、上がったら、坪庭を眺めてお茶でも飲もう。最大、十二時まで。それでいいか? 明日、早いんだ俺」

「うん……ありがとう、玲!」


 室内の灯りをともしたときに、さくらの携帯にメールの着信があった。類からだった。

『十時半ごろに京都へ着く』と。なんというタイミング! 

 さくらは身構えた。玲にも、画面を見せる。


「……お前に対する類の執着心、すごいな。祥子も、呼んでおくか。今ごろ、飲んだくれているかもしれないが」


 さくらは玲を見上げた。


「あいつにも関係、あるんだろ? 今日のうちに話を済ませてしまおう。面倒なことは、さっさと終わらせたほうがいい」

「でも、心の準備が」

「いらないよ、そんなの。お前の気持ちを、伝えればいい。俺に教えてくれたように、すべてをそのまま。で、今夜は全員十一時半に就寝」


 ん、十一時半? さっきよりも、早まってない?


 玲は、祥子を呼び出すために電話をかけた。了解を得たので、迎えに行くという。


「少しの間だけ、さくらをひとりにしてしまうが、だいじょうぶか。お前も行くか?」

「待っているよ、平気。ひとりになって気持ちを整理したいところだったし」

「よし。いい顔だ」


 玲がいなくなると、室内はとたんに静かになった。

 ……いやに暑い。昼間の熱気が残っている。さくらは窓を開けて換気することにした。


 一日が長い。

 今日の残り時間は、あと二時間弱とはいえ、軽井沢から京都まで移動し、送り火を見たり、灯籠流しをしたりと、さすがに疲れた。全身に重い鉛が載っかっているようだ。

 さくらは、茶の間で少しだけ横になろうと思い、寝そべった。こんなだらしない姿、きょうだいには見せられないが、一度ごろりとなっていしまうと、もう立ち上がれなかった。

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