第30話 切ない音色を私に聞かせて③-2
四人はホテル内のレストランに移動した。
カジュアルフレンチの店で、個室が用意してあるという。窓からは、中庭と回廊が見えた。
「休憩時間は一時間半です。多少はゆっくりできるでしょう」
「せっかく避暑地に来たのに、ホテルの中で食事なんて味気ないけど、さくらねえさんがいるからま、いいか。食事が終わったら、散歩しようよ」
「うん」
「指輪、してくれているね。うれしいな。ぼくも、しているよ。すでに結婚したみたいだね」
完全にふたりの世界である。涼一が喰いついた。
「ふん、撮影用だろう。ブライダルフェアの撮影は、続いているわけだし」
「はじめは撮影用にと思って作ったけど、これはぼくが用意した指輪」
食事が運ばれてきたので、とりあえず食べようということになった。
いったん、話は中断する。
類の食べる量はとても少ない。午後の仕事が持つのかと、案じてしまうほどに。
「京都でさくらねえさんの食事、おいしくて。きっちり食べていたら、太ったんだよ。片倉さんに叱られた」
「ひと月あまりで二キロも増えてしまっては、プロ失格です。いくら活動縮小中でも、太めの北澤ルイは要りません。今回の撮影、リハーサルで用意した衣装がほとんどきついですよ」
「さくらねえさんのごはんは太るんだ。おいしいから。玲もそうだし。さくらねえさんのせいだよ。責任、取ってね」
「責任って。どうやって取るの?」
「簡単なことさ。今日から毎晩ベッドの上で、食後の熱い運動をぼくと交わせばいい」
「しょくごのあついうんどう!」
涼一が類のことばを繰り返した。
「あまりからかうものではありません、お父さまでしょうに」
片倉が類を叱った。
「はいはい。さくらねえさんも、オトーサンも、素直な反応がおもしろくってね。ついつい」
食事内容、ちょっと考え直さなきゃ。玲も類くんもたくさん食べてくれるからうれしくてつい、多めに作っちゃったりするけど、モデルさんだもんなあ、類くんは。
軽めの食事が済んだあと、片倉は用件を切り出した。
「まずは、今回の写真をご覧ください。とてもよく撮れてします」
北澤ルイの姿形がよいだけではない。よろこび、うれしさ、切なさ、幸福感がにじみ出ている。さくらも、撮影のときの高揚感を思い出し、どきどきしてきた。
「ルイのファンへの配慮で、チャペルのスチルは最低限に留めておくという予定でしたが、ブライダルの主役は花嫁。花嫁がいない結婚式など、不自然だという声が特に女性スタッフから上がっています。その点、チャペルの写真は見事です。そこで、この写真をメインのスチルに使いたいと提案されました。いかがですか?」
全身像の写真だ。チャペルに、ルイとさくらが溶け込んでいる。
場面はちょうど、誓いのキスの直前でルイが花嫁のベールを上げたところ。さくらがルイをぶった直前だろうか。結婚するふたりが幸せになることを誓い合う、大切な瞬間である。
「うーん。だけど、これは」
確かによく撮れている写真だが、涼一は難色を示した。
さくらの横顔がわりとはっきり映ってしまっており、顔は出さないといった当初の条件には反している。さくらを知っている人ならば、すぐに気がつくだろう。
「もともと、この撮影はルイ側の事情を待って、臨んだものでした。柴崎類十八歳の誕生日と、試験があったからです。いくらイメージとはいえ、結婚年齢に達していない者をモデルには起用できませんので。そのために、相当スケジュールが押しています。今秋の、大きなブライダルフェアは十月、メインスチルを即断して、すぐにでも広報活動を進めたいそうなのです」
「これ、ぼくもいいと思うよ。相手がさくらねえさんだったからこそできた、奇跡の一枚」
「メインということは、もっとも人目につくポスターやパンフレットに使う、ということですよね。うちの会社も、あざといな」
「さくらさんとお父さまの了解が得られれば、の話ですが」
「さくらはどう思う?」
涼一が引き伸ばされた写真を手に、問うた。少し頷く。答えは出ていた。
「類くんも、チャペルも素敵です。私も、いつもの私じゃないみたい。写真、使ってもらっても構いません」
「だが、素人モデルが北澤ルイの花嫁を務めたともなると、嫉妬がひどいと思う。逆上したファンに、脅迫されたりしかねない。類くんの気持ちはさくらにある。この写真を見れば、誰だって分かる。北澤ルイは花嫁を真実愛している、と。片倉さん、この件についてきちんと話し合いたいのですが、今お時間よろしいですか? ほかの写真も詳しく見せてほしいし、子どもたちは退席してくれるかい? 類くん、しょくごのあついうんどうは控えてくれよ」
「はいはい。さくらねえさん、ようやく念願のふたりきりだよ」
「ルイ、休憩は二時までだから」
「了解」
さくらは腕時計を見た。午後の仕事再開まで、あと三十分ほど。ホテルの敷地外に出るような時間的余裕はなさそうだ。
レストランを出ると、若い女性客がルイを待ち構えていた。ちょっとした騒ぎになる。どうやら、撮影のあとから追いかけられていたらしい。
遠巻きに眺めていたロビーの人々も、なんだなんだとこちらに目を向けてくる。
「帽子、被って。目深に」
類は自分の帽子をさくらに被らせた。さくらの顔を隠し、守るつもりだ。そして、さくらの目の前に立ち、心ない人たちの盾になる。
「ここをどいてくれるかな? ぼく、休憩中なんだ。周囲の人たちへも配慮して」
ルイくんルイくんとまとわりついてくるファンを、類は一喝した。
さくらの手を引き、足早に大股で歩く。類はまっすぐに進み、ロビーを駆け抜ける。さくらも、飛ばされそうになる帽子を片手でおさえ、もう片方の手で類の手を握り返す。
屋外へ出た。
ふたりは、木立の中を疾走した。
ホテルの本館から少し離れただけで、あたりは静寂に包まれた深い森が続いている。避暑地の人気ホテルとは思えないほど、ひっそりとしていた。
ふたりの荒い息遣いがこだまする。
類は日蔭の芝生の上にごろん寝転んだ。さくらも身体ごと、引っ張られてがくんと膝から折れてしまい、座った。
「あー、もう。余計に、暑い!」
そう言って、シャツのボタンをひとつ、ふたつ、外した。
くつろごうとしている様子だが、類のしぐさも覗ける胸もとも、やけになまめかしくて直視できない。さくらは目を逸らしながら、話しかける。
「誰もいないし、ここで少し休もうか。類くんは午前中、ずっと太陽の下にいたから、暑くて、体力を消耗したんじゃない?」
「ありがとう、さくらねえさん。やさしい」
いったん起き上がった類は、さくらを大きな木の下に引きずり、幹に持たれかかった。さくらの肩にちょこんと頭を預け、目を閉じた。まるで、小さい子どものよう。
気持ちが落ち着いてくると、どちらからというわけではなく、自然と笑みがこぼれた。
「あれ、いい写真だったね。ぼくは完全に素だった。だからこそ、あの写真が生まれた。さくらねえさんをいとおしく思う心、一緒にいたいという気持ち、いろんな感情が交錯した。もし、あの写真が採用されたら騒ぎになると思うけど、ぼくが必ず守るから」
「ありがとう」
「ウエディングドレスもよかったけど、今日のさくらねえさんもかわいいね。素直で、明るくて、前向きで」
類はさくらと手をつないだ。
「このまま、時間が止まればいいのに。さくらねえさんと、ずっとこうしていたいよ。午後もまた仕事なんてさ」
「私は、類くんの撮影を見たいな。かっこいいもん。自慢の弟だよ」
「そうやってまた、ぼくの心をくすぐるのか。前言撤回。さくらねえさんは卑怯。狡猾。黒い天使」
拗ねてしまった類は、再び目を閉じて寝入ってしまった。食後だし、疲れているのだろう。さくらは類の頭をよしよしと撫でてやった。
しばらくの間、類の瞼はぴくぴくと動いていたけれど、そのうち深い眠りに誘われてしまったようで、半開きの唇からはあたたかい吐息が漏れはじめた。
こうして眺めてみると、類は幼い。
ふだん、できるだけ自分を大きく見せようと虚勢を張り、オーラをみなぎらせているものの、中身は十八歳。
いや、仕事や家族で苦労してきただけに、安心できる場所を誰よりも求めているのかもしれない。
うとうとまどろんでいたのは、十分ほど。
類の携帯が、けたたましく着信を知らせた。時計の針は午後二時をさしている。休憩時刻は終了だった。
「ルイ、仕事です」
携帯電話の追跡機能を使い、類の居場所を特定してきた片倉が淡々とした口調で告げた。
もちろん、類は寝起きでもあるので不機嫌。片倉に支えられて起き上がる。
「せっかく、さくらねえさんのそばで、楽しい夢を見ていたのに。濃厚な。内容、聞きたい?」
「あなたが遅刻すると、スタッフに迷惑がかかります。行きますよ。さくらさん、先ほどの写真をメインに据えるということで、お父上さまからの承諾を得られました。急いで、編集・印刷にかかります」
苦い顔で、涼一が頷いた。片倉の背後にいたので、はじめは姿がよく見えなかった。
「やった。さっすが、オトーサン。娘の幸せを優先してくれている! これでほぼ勝利したね、ぼくが」
「類くんが、勝利?」
さくらは尋ねた。
「うん。いずれ、玲も目にするでしょ、でもあれを見たら、ぼくたちの間に割り込めるとは考えないよ。間違いなく、勝手に身を引く。さくらのこと、諦めるね!」
眠気を吹き飛ばした類の頬は、自信に満ちあふれている。
「そうだな、これはきついね。私だって、泣く泣く我慢したんだよ。でも、こんなにうつくしい新婚夫婦の写真をボツにするなんて、もったいない」
涼一も頷いている。
「会社も業績アップ間違いなし! いい娘と息子を持って、オトーサン大出世!」
さくらは、類と別れた。
軽い打ち合わせのあと、撮影を再開するという。絶対に見ていてよねと、類に釘を刺された。
完全に類の姿が見えなくなったあとで、さくらは涼一に告げる。
「父さま。今すぐ……京都へ、戻ってもいい?」
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