第28話 切ない音色を私に聞かせて②-2

***


「おつかれさま」

「おつかれさまでした」


 さくらと類は、フルーツジュースで乾杯した。


 夜の食事が終わったあと、類に散歩しようと誘われた。昼間の失敗のこともあり、断れなかった。涼一に許可をもらい、さくらは類に付き合うことにした。

 今夜の部屋割りは、さくらと両親が同じ部屋、類は個室となっている。


 門限は十時。


 類の提案で、夜のプールに来てしまった。用意がないと渋ったが、類はさくらの水着を持っていた。


「雑誌で見かけてかわいいなって思って、スタイリストさんにお願いして、取り寄せてもらったの。着て見せて」


 渡された水着は甘い桜色の、しかし薄い布地に大胆カットのビキニだった。これをリアル店舗の水着売り場で類が購入していたとしたら、相当変態である。仕事のつてで手に入れたと聞き、さくらはやや安心した。


 しかし……。

 類の趣味らしいけれど、肌の露出多すぎな水着である。


「ぼくの部屋で着てもらってもいいんだけど、理性が保てそうにないよ。せっかく夜遅くまで開いているホテルのプールもあるんだ、行こうよ。リゾートなんだし、泳ごう」


 だったらもっと早く言ってくれれば、自分で水着を用意したのに。反論しかけたが、今日ばかりは類の意見を聞き入れるしかない。

 唇を閉じ、笑ってみせる。


 人の少ない夜のプールは照明が落とされ、完全におとなムードである。水面に反射した光が、夜空の星のようにきらきらとまたたいている。


 さくらと類は、屋外プールサイドのベンチに並んで座っていた。少しでも身じろぐと互いの素肌が触れてしまう、そんな距圧感である。


「似合うよ、さくらねえさんすごくかわいい」

「ありがとう……でも、恥ずかしい」

「きれいだよ。胸が、きゅっと絞めつけられる」


 完全に類のペースだった。大胆水着を着たなんて、玲には話せない。話したくない。


 日が沈むと気温が下がるため、屋外プールには入れなくなっているから、ここではプールを眺めるだけだ。泳ぎたいという人は、室内のプールを使っている。


「今日はぼくの仕事に協力してくれて、ほんとうにありがとう」

「私のほうこそ、素人モデルが現場を混乱させてしまって、ごめんなさい。迷惑、かけました」

「そんなことないよ。いいスチルがたくさん撮れたって、最後にはみんな興奮していたもん。撮影前は、否定的だったけど。たぶん、速攻でポスターやらパンフレットを仕上げてPRしまくるだろうね。楽しみだな」


 類は、さくらが花嫁モデルに選ばれた経緯を語ってくれた。


「何回も軽井沢まで来られないから、リハーサルは東京のスタジオでやったんだよね。そのとき、花嫁は普通にモデルの女の子だった。ぼくもモデルの女の子も正装して、リハーサルをこなしたんだけど、ぼくの気持ちが全然乗らなくて、悩んだんだ。いつもは完璧に仕事をこなしているのに、どうしてって。同時に、相手役がさくらねえさんなら、どんなにいいかなって」


 プロの類にも、悩むことがあるらしい。


「だから、よりよいものを作るために、ぼくはさくらねえさんを花嫁モデルしようと提案した。もちろん、はじめはすごく否定された。しろうとだもん、当然だよね。でも、片倉さんが味方になってくれてさ、話が進んだんだ」

「片倉さんが、私を推薦してくれたんだ?」

「そう。『北澤ルイの、男としての魅力を最大限にまでくまなく引き伸ばしたいなら、柴崎類の力を頼るべきです』とか、熱弁をふるってくれちゃって。片倉さん、ぼくがさくらねえさんに心底惚れているの、知っているからさ。こんなこと言ったら、さくらねえさんは引いちゃうかもしれないけど、今までの片倉さんは、ぼくが女の子と遊ぶの、好意的に見ていなかったんだよ。でも、さくらねえさんへの本気度は伝わったみたいで、うれしいよね。認められるのって。ねえ、手を出して」

「手を? こう?」


 さくらは両手を前に伸ばした。『前ならえ』みたいな姿勢になったさくらに、類は苦笑した。


「違うよ。左手だけ、ぼくのほうに向けてみて」


 なにげなく差し出した手のひらを、類はくるっと返し、さくらの薬指に指輪をはめた。シンプルなデザインの指輪は、さくらの指のサイズにぴったりである。


「これ、撮影で使った小道具だよね」

「本物のマリッジリング! 今日のために、ぼくが作ったんだ。内側には名前が彫ってある。確かに、撮影でも使ったけどね。今日、がんばってくれたから、さくねえさんへのご褒美だよ」


 類の手の中に残っている、もうひとつの指輪を見せてもらった。

 内側に、今日の日付と『R&S』という文字が入っている。類とさくら、の意味だろう。


「ぼくの分は、さくらねえさんがはめて」


 できない、と拒否しようとしたが、類は無言でさくらに迫った。さくらが指輪を類につけるまで、絶対に食い下がるつもりだろう。

 覚悟を決めて黙って受け取り、類の薬指に通してやる。撮影のときにはかなり手間取ったが、今は本日二回目だったので、すんなりとはめることができた。


「ありがとう」


 そう言うと、類は膝を進めてさくらに身体を寄せてきた。類の肌が、さくらに吸いつくように這う。


「外さないでね」

「今日のところは、このままにしておくよ」

「今日だけ?」

「だって、学校とかあるし」

「目立たないデザインのを選んだから、いいでしょ?」

「なら、違う指で使わせてもらう」

「そこじゃないと、意味がないんだ。動かさないで」


 しかし、それでは類と結婚した……という意味になってしまう。


「ぼくの部屋に行こうよ、ねえ。ふたりきりでもっと話がしたいな」


 類はさくらの頬を撫でながら誘った。類の手は、次第に首筋から肩へと伝う。


「ぼくが噛んだところ、傷になっちゃっているね」


 類は、さくらの傷痕を撫でるように触った。水着になったせいで、目立ってしまったらしい。


「ううん。これは、私がだめだったしるし」

「さくらねえさんはだめなんかじゃない。ぼくの部屋で続き、しよ?」


 この状況で、ふたりきりの密室に行ったら、絶対に危険である。それはよく分かっているので、さくらの警鐘が頭の中で鳴りっぱなし。


「ここでも、じゅうぶん話はできるよ」


 さくらは笑って逃げようとしたが、類は生真面目に批判した。


「いや、ここはふたりきりじゃないから、ほら」


 類の視線の先には、目を凝らすと、木の陰に両親の姿があった。いつからいたのだろうか、薄暗くて気がつかなかった。


「浅ましいよ、覗きだなんて。ぼく、覗くのは趣味だけど、覗かれるのはごめんだね」

「すまん、類くん。でも、さくらが心配で」

「そんなところで、父さまってば立ち聞き? ひどい!」


 涼一が頭を掻きながら、弁解した。


「娘の貞操の危機に、ぼんやりしていられるか」

「やめましょうって言ったのに。かえって、さくらちゃんの信頼を失っちゃったじゃない」

「こんな過激で煽情的な、きわどい水着を着させられているし。指輪の、こ、交換とか。ああ、さくらが、私のさくらが!」

「とりあえず、移動しようか。類くん」


 さくらは立ち上がった。すかさず、類が手を握る。


「さくら、どこへ行く? どこへ。まさか、類くんの部屋じゃないよな、さくら。行くな」


 心配してくれるのはありがたいけれど、ここまで執着されると冷める。

 さくらは類の顔を見上げた。


「うん。行こう、さくら。オトーサン、早く子離れして。せっかくだから、中のプールで少し泳ごうか。その水着が、さくらねえさんの肌にぴったり張りつくところとか、見たいなあ。さくらねえさん、泳ぎは得意?」

「泳ぎはあんまり。類くんは」

「ぼくは勉強も運動も、そこそこなんでもできるよ」


 そう言いながら、類はゴーグルを装用した。


 そのタイミングで、反対側の木陰からスーツ姿の片倉が出てきて、ふたりと涼一の間に入り、接触を阻んだ。プールサイドにスーツとは、不似合いな格好だが、片倉は『ルイの護衛』という仕事中なのだろう。


「さくらさんの身の安全は、私が守ります。ご両親は、どうかお引き取りください。十時までに、必ずお送りしますので」

「さくら、さくらあ」

「みっともないから、涼一さん。諦めて。さくらちゃんは、もう大学生なのよ」

「いや。まだ十八だ」


 追い縋ろうとする涼一。それを止める聡子。



 誰もいないプールに、類は飛び込んだ。

 うつくしい放物線をえがいた類の身体は、クロールでぐんぐんと泳ぎ出す。正しく伸びた手足からは水しぶきがほとんど上がらない。

 なにをやっても、絵になる。


「どう、さくらねえさん?」


 軽々とプールを往復した類は、さくらのいる場所へ戻ってきた。


「よかったよ。泳ぎもじょうず」

「ますます好きになったでしょ?」

「うー。うん、そうだね」

「やったね。さくらねえさんも、おいで」


 類は声を挙げてはしゃぐ。類がさくらの腕を引っ張る。温泉に沈められたときのことを思い出したけれど、今は水着だ。さくらは類に引っ張られるまま、プールに飛び込んだ。


 ただ、水の中に入っただけなのに、笑いがこぼれる。きゃあきゃあ叫んで水をかけ合ったり、追いかけっこをしたり、さくらは類と遊んだ。


「こういうの、夢だったんだよね。戯れるっていうのかな。さくらねえさんは、次々にぼくの夢を叶えてくれる」

「こんな子どもっぽい遊びでいいの?」

「子どもらしい遊び、全然してこなかったから、大歓迎。でも、そろそろ背伸びした遊びもしよう。次は、さくらねえさんの夢を叶えてあげようね」


 水の中。

 類は、さくらの身体を背後から抱いた。


「もっともっと大切にされたいんだよね。全身から、願望がにじみでているよ。さくらねえさん、好き。愛している」


 切ない吐息が首筋に這う。さくらは思わず声を挙げた。


「類くん、だめ。そんなこと、しないで」

「我慢できない。さくらねえさんが欲しい。すべて捨てたっていい。今はさくらねえさんだけ。ねえ、ぼくの部屋に来て、この続きをしよう」


 身体が、いうことを聞かない。


「類、くん」

「すごい。鳥肌、立っているよ」


 さくらは、全身の重みを類と水面に委ねていた。恥ずかしいし、とても、怖い。

 けれど、さくらの心の扉を激しく叩いてくる。


「さくらねえさん、もう絶対に離さない。どんなにいやがっても全部、ぼくのものだよ。甘やかしてあげる」


 プールの中だというのに、さくらの腰のあたりにぎゅっと押し当てられる類の感触が、恐怖を誘う。


 どうしよう。


「ルイ、そこまでにしなさい。さくらさんが困っています。そろそろ、部屋に戻ったほうがいい」


 片倉が苦言を述べた。

 完全に、ふたりの世界を構築していたつもりだった類は急に現実へと引き戻され、さくらからから身を引いた。さすがの類も、わりと片倉の言うことは聞くようだ。


「もう、そんな時間なのか」

「さくらさんの着替える時間などを考慮すると、上がるべきです」

「なんで、これからってときに、妨害されるのかな。信じられないよ」

「こんな場所で思いを遂げられても、さくらさんはうれしくないでしょう。さくらさんのために最高の場所を用意するのも、一流の男、北澤ルイの役目ですよ」

「ちっ。片倉さんは、いつもひとこと多いんだよ。もう少しでさくらねえさんと……ああ、もういいや! さくらねえさん、着替えて早く部屋に帰って。ぼく、もう少し泳ぎたいから」


 類はさくらから離れると、すっと泳いでゆく。さくらは少しほっとしたような、がっかりしたような、妙な気分に襲われた。


「今のうちです、さくらさん。早く上がってください」

「は、はいっ」


 さくらは横目に類の姿を見ながら、そそくさと水から上がる。水着の、左の肩ひもが大きくずれていた。類が引っ張ったからだ。

 片倉はさくらを見ていないが、あわてて肩を押さえる。


「あ、あの、片倉さん。助けてくれて、ありがとうございました」

「お礼など、要りません。着替えたら、部屋にすぐ戻りましょう。ルイが拗ねている間に、さあ。ルイはあなたへの恋に、狂っています」


 渡されたタオルを肩に羽織り、さくらはプールサイドを早足で歩いた。


 着替えたのち、片倉に付き添われて部屋へと戻ったさくらは、両親とはひとことも喋らなかった。

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