第27話 切ない音色を私に聞かせて②ー1

「少し、休憩しましょう。ルイ、さくらさんも」


 声をかけたのは、ルイのマネージャーである片倉だった。


 さくらは俯いたまま、頷いた。

 そして、逃げるようにして駆け出す。途中で、履き慣れないヒールの高い靴が脱げてしまったので、手に持って歩く。



 さくらは控え室に戻っていた。


 誓いのキスで驚いて、類をぶつなんて、大失態。

 最低だ。

 演技だったのに。

 公私をごっちゃにしているのは自分だ。

 類やスタッフの方たちに、謝りもしなかった。できなかった。


 その場に、ぺたんと座り込む。

 大きな鏡に、みじめな自分が映っている。情けない。

 類の大切な仕事の邪魔をしているなんて。息が苦しい。


 こらえていた涙が、堰を切ったかのようにぽたぽたと落ちた。


「さくらちゃん、いい?」


 ドアをノック音とともに聞こえるのは、聡子の声だった。

 さくらはドアを開けた。


「いったんドレスを脱いで、お茶でも飲みましょう。ホテルの方に淹れてもらった紅茶だから、安心して飲んで」


 聡子はさくらにあたたかいお茶を用意していた。カップを並べてくれている間に、さくらはウエディングドレスドレスを脱いだ。ドレスが痛まないように、最後は少し聡子に手伝ってもらう。


「さ、座ってね。まずは、謝らせて。類のこと」


 聡子はさくらに頭を下げた。


「謝らないでください、お母さん。悪いのは私です、謝るのは私。モデルの類くんの、きれいで大切な顔を、ぶつなんて。しかも、みなさんの前で。ごめんなさい」

「類にも、さくらちゃんの思いは分かっているはずよ。でも、感情を抑え切れなかった。あなたは、とても綺麗。自分だけのものにしたい。類の、素直な気持ちなの」

「……はい」

「困っているのね」


 ティーカップを手にしたさくらは頷いた。

 冷たい指先が、次第にあたためられてゆき、心地よい。撮影中は暑いぐらいだったのに、汗が引いたらすっかり冷えてしまっていた。


「玲のことが、好きなはずなのに。ふたりで生きていきたいと願ったはずなのに、気がつくと類くんのことを見ているんです。こんな私が、自分でもいやになります。先ほどのことも、驚いたというか、恥ずかしくて、でも……いやじゃなかった。類くんの気持ちがうれしかった。思われていることを、私は喜んだ。これは、玲に対する裏切りです」


 たぶん、類のことが気になってきている。どんなに振り回されても、わがままを言われても、目が離せない。許してしまう。

 もう、姉として弟を見ていない証拠だ。


 かといって、玲への思いが消えたかというと、そうでもない。玲が見守ってくれているから、さくらは慣れない土地で暮らすことができた。類が来ても、玲がいるから乗り越えられると信じていたのに。


「さくらちゃんも、玲に素直な気持ちをぶつけてみなさい。あの子は賢いわ。きっと、一緒にいい答えを考えてくれるはず。私は前にも言ったけど、どちらを選ばなくてもいい。それかいっそのこと、両方とも、ものにすればどう?」

「どちらも手に入れるなんて、できません。そんなの、失礼です」

「そうかしら。妙案だけどね。玲と類の、一日おきの恋人になるの。宙ぶらりんの現状のまま、答えを待たされている状態のほうが、ふたりともつらいと思う。どちらも選ぶつもりがないなら、町家を出なさい。私が別の部屋を用意する。市内に、会社の社員寮があるから、卒業するまで使っていいし。いつでも言ってね。人生、一度きりよ。恥ずかしいとか、遠慮している場合じゃない」


 逃げ場もあると聞き、波立っていたさくらの心は、徐々に落ち着いてきた。涼一も、きょうだいとの同居を解消していいと言ってくれたことを思い出す。無理して、踏みとどまらなくてもいいのだ。


 何度も深呼吸をする。

 だいじょうぶ。できる。

 一度、引き受けた以上、この仕事だけはやり遂げたい。


***


 聡子が去ったあと、もうひとりさくらを訪ねてきた人がいた。


「片倉さん」


「先ほどは、台本にない行為で、類が大変失礼をしました」

「いいえ。謝らないでください、私が油断していました。類くんにひどいことをしたのは私のほうです」

「さくらさん、あなたはほんとうにやさしい人ですね。ルイが惹かれるはずだ」

「そんな。私は別に、なにも」

「その謙虚なところが、またいいのでしょうね」

「絶賛しても、なにも出ませんよ。私は、ただの大学生です。類くんには釣り合いません」


「ですが、ルイが望んでいるやさしさを、あなたは持っている。どうか包んでやってください。あなたがいれば、ルイはどこまでも行ける。どうか、ルイのものになってください」


 片倉は頭を下げた。

 しかし、はいそうですねと受け入れられる懸案ではない。


「困ります。私は優柔不断で、自分ではなにも決められなくて、みなさんに迷惑ばかりかけてしまって、現場を荒らして、ほんとうに情けないです」

「その純粋さが、ルイの憧れだとしたらどうしますか。ルイは業界に染まって、すれてしまった。だが、どこまでも素直なさくらさんを知った。惹かれるのは、当然のなりゆきです。どうか、ルイを支えてください。今、あなたに去られてしまっては、北澤ルイと柴崎類がいっぺんに崩壊します。今のルイには、あなたを得ることが生きる証なのです。彼がこんな気持ちをいだくのは、初めてのことでしょう」

「弟としての類くんはともかく、北澤ルイの存在は正直、重くて。私だけでは、無理です」

「あなたなら、彼のすべてを受け入れられると信じています。どうか、迷わずに」


***


 控え室で三十分ほど休憩したのち、撮影再開を申し出た。涙で流れてしまったメイクを直し、ドレスを着直す。


 鏡の中には、北澤ルイの花嫁がいた。しあわせに包まれ、喜びに満ちている。

 先ほどとは別人のようだ。


 チャペルに戻ったさくらは、類にまず謝った。


「ごめんなさい、類くん」

「ううん。ぼくのほうこそ、悪かった。嫌われちゃったかと思った」


 類は少しも怒っていなかった。


「嫌いになんてならないから、安心して。最後まで、きちんとやり遂げます。北澤ルイの、新婦役」

「よろしく頼むね。この役、さくらねえさん以外にはできないんだ」


 そして、スタッフにも撮影の中断を詫びた。真正面から、さくらを責める者はいなかった。むしろ、さくらの緊張がほどよく解けたことを、歓迎する雰囲気だった。

 しこりは残っている。けれど、それを表に出さないのが社会人。


 片倉に類を受け入れてほしいと懇願され、悩みが再びはじまりそうだけれど、今は目の前の撮影に専念する。

 いま、このときだけは、類の花嫁役になりきろう。



 撮影は、予定時刻よりも二時間遅れて終わった。

 明日以降もルイの撮影は続くが、さくらの出番はもうない。

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